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(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月23日(金)15時51分44秒
  「祈りと賛美」《Now watching 637》

祈りと賛美を捧げる時に、心も体も元気になります。予定が重なりましたが、ここに導かれました。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月23日(金)13時36分25秒
  「自分を許していますか?」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/2/23(金)【1042】)

自分がミスをした時、自分を責めてしまうことはないでしょうか?

自分のミスを責めたり、自分を「バカだ」とののしったり、自分を非難するのはやめましょう。

自分のすることは何もかも間違っていると感じて、さらにミスを繰り返すことになります。

「大丈夫。大したことはない」と自分に語ってみたら、プレッシャーは軽くなり、ミスも繰りかえさなくなります。

自分に優しくすると、自分の間違った決断やミスに対して、客観的に受け止めるゆとりが出来て、同じミスを繰り返さないようになります。

誰だってミスは犯します。わざとそうした訳ではありません。

私を造り、愛しておられる神はあなたを責めず、優しく受け入れておられます。神がして下さったように、自分自身にも寛大になったら、他人に対しても優しく接することができるようになります。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(ヨハネ15:12)

あなた自身を許し、受け入れ、寛容に受け止めたら、きっと次から、ミスを繰り返さないようになって行きます。

悔い改め、神様に心を向けましょう。そして、イエス様の胸に飛び込みましょう。

自分を責めるエネルギーは前進することに使って下さい。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月23日(金)08時46分41秒
  「ナザレ(Nazareth)」

ナザレの町は、イエス様の生まれ故郷です。

「突き落としの壁」と呼ばれる場所があり、イエス様は反対者から突き落とされそうになりました。

少年時代のイエス様は、もしかしたらこの山に登って遊んだかも知れません。

ナザレの町は、人口が少なく、取るに足らない場所と考えられました。

イエス様を認めたくない人々は、「ナザレから何の良いものが出るだろう。」(ヨハネ1章46節)と言いました。

イエス様は、ナザレで生まれ育ち、ユダの荒野でバプテスマのヨハネから洗礼を受け、ガリラヤ湖に宣教の活動拠点を移し、最後は、エルサレムに上って行って十字架にかかりました。

しかし、ナザレで生まれ育ったので、「ナザレ人イエス」と呼ばれました。そして、弟子たちも、パウロもそう呼びました。

「ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには『ユダヤ人の王ナザレ人イエス』と書いてあった。」(ヨハネ19章19節)

「すると、ペテロは、『金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい』と言って、」(使徒の働き3章6節)

「以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。」(使徒の働き29章9節)

最後に、イエス様は、「預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。」(ルカ4章24節)と言われました。

少年時代からイエス様を知っている人たちの多くは、頑なにイエス様を受け入れませんでした。

今日あなたは、ナザレ人イエス様を「救い主」として信じますか?

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1章12節)
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月22日(木)21時36分10秒
編集済
  「宇都宮路傍伝道」《Now watching 636》

雪が静かに降る中、宇都宮伝道に12名が参加してくれました。東京から参戦した人たちが大半でしたが、地元から5名の方々が参戦して下さいました。回を重ねるごとに一体感を感じます。本当に良い時間でした。伝道後は、贅沢にも、宇都宮餃子と佐野ラーメンセットを食べました。何もかもが最高でした。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月22日(木)17時45分35秒
編集済
  「宇都宮に到着!」《Now watching 635》

午後3時に宇都宮に到着。カフェでまったりし、宇都宮のhi-b.a.に顔を出し、お友達がいる峰町教会を訪問しました。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月22日(木)10時34分45秒
  「一日一日を大切に」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/2/22(木)【1041】)

今日は2月22日。語呂合わせから、猫の日(にゃん・にゃん・にゃん)、忍者の日(ニン・ニン・ニン)、おでんの日(フー・フー・フー)だそうです。

年に一度、誕生日や記念日、~の日があることで、思い起こして感謝したり、懐かしんだり、再認識することは素晴らしいことだと思います。

私は、毎週水曜日の夜に祈祷会を行なっています。以前は木曜日の夜でした。

この一日の差がとても大きいのです。

木曜日の夜になると疲れているし、もう週の後半のように感じますが、水曜日の夜だとまだまだ疲れてないし、週の前半から半ばだと感じます。

一日得をしたような気持ちです。

今日は、日本全国路傍伝道の旅第6弾で宇都宮駅まで遠征します。

栃木県の数人の仲間も来てくれるそうで、10人前後で路傍伝道をする予定です。

路傍伝道の活動を報告すると、遊びの延長であったり、自己満足な活動をしていると思う人がいます。

確かに楽しいですし、満足感があります。しかしそれは、結果的に感じるおまけに過ぎません。

私は、時間が大切だと思うからこそ、一人でも多くの人にイエス様の愛を伝えたいと思うので、伝道の優先順位を意図的に高めています。

時間は、神がすべての人に平等に与えられた賜物です。

誰であっても、何人であったも、一日24時間、一週7日、一年365日(閏年除く)が平等に与えられています。

しかし、その時間の使い方によっては、ゴムが伸び縮みするように、時間が何倍もに膨ませることもできるし、縮ませて退屈で虚しい時間にしてしまうこともできます。

人は誰でも、大切だと思う度合いに応じて優先順位をつけて、それに従って取捨選択しながら生きているものだと思います。

私の優先順位は、
1、神様
2、家族
3、教会
4、お金がもらえる仕事
5、ボランティアの仕事
6、趣味、遊び

路傍伝道は、この優先順位に従うならば5番に入るはずですが、時には、4番や3番になることがあります。

私は18歳の時にクリスチャンになり、20歳で神様に献身して神学校に入学しました。

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12章1節)

私は、生きたまま自分を供え物として神様に捧げました。

しかし、生きているゆえに、時々、取り戻して、自分の考えで生きたくなることがあります。

これが、クリスチャンが味わう葛藤です。

パウロは、その葛藤をローマ7章で嘆いています。

19,私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。
20,もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
21,そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
22,すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、
23,私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
24,私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
(ローマ7章19節~24節)

しかし、ローマ8章に入って、展開がガラッと変わります。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ8章1節~2節)

モーセが神とともに出エジプトを導いたように、イエス様がいのちの御霊によって罪と死の原理から解放して下さいました。

イエス様に従って、生きたままの私を、繰り返し神に捧げたら良いのです。

「イエス我が王を」というゴスペルがあります。

イエス我が王を賛美で迎えん
栄光の主の御座を設けたまえ主よ
私は神のものゆえに神にささげん
御心のままにおさめよ主イエスよ

「私は神のもの」と歌詞にありますが、私たちは、二重の意味で神のものです。

1、神が私を創造された
2、神が私を贖われた

「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1章27節)

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」(第一コリント6章20節)

ゆえに、繰り返し自分を神に捧げていきましょう。

そうしたら、主客の転倒がなされ、優先順位が変わるはずです。

人生は一回だけてす。

この世の人生は準備期間で、本番は天国です。

この永遠の天国につながる生き方を選び取っていきたいものです。

この世の人生は、準備期間だからこそ大切なのです。

結婚前の婚約期間のようなものです。

天国を楽しみにしながら、今を生きていくのです。

未だイエス様を信じていない人を「未信者」といいます。

これは、「未だ信じてない人」というよりも、「未来に信じる人」だと勝手に考えています。

まだイエス様による救いを受けていない人は、

イエス様が私の罪のために死なれ、墓に葬られ、三日目にによみがえられたと信じることが優先順位の第一です。

イエス様を信じて父なる神と和解した人は、この福音を伝えることを優先順位の第一にしたいものです。

パウロは、「私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。」(第一コリント9章23節)と語りました。

パウロは、人生のすべての時間を福音を伝えるために生き、すべてのことを福音のために行なって生きることを心がけました。

それが、パウロが福音の恵みをともに受けることにつながったのです。

福音を伝える人には、福音の恵みが伴うのです。

私は、生活のすべての時間を福音のために生き、すべてのことを福音のためにしたいと願っています。そうできているというのではありませんが、そうしたいと願っています。

だから、路傍伝道をするのです。

路傍伝道が伝道のすべてではありませんが、とても有効な手段だあることは確かです。

効率的に人々を教会に集めたり、信仰に導こうとするならば、もっと別の方法があります。

しかし、効率云々ではなく、まずは、すべての人に知ってもらうことが先決です。

伝道するプロセスで人が次々に救われ、イエス様の弟子となっていきますが、同時進行で、日本国内で福音を知らない人たちや、全世界の未伝道地域に伝道し、宣教していかなくはなりません。

第一のことを第一にするならば、必要は与えられますし、心配しなくても人生は豊かに祝福されます。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6章33節)

生きたまま自分自身を神に捧げ、第一のことを第一にし、今日と今を大切に生きてまいりましょう。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月22日(木)07時40分49秒
  「御霊が鳩のように下る」

イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けたとされるヨルダン川は、小さく、茶色く濁っています。

ナアマン将軍がライ病の癒しを求めて預言者エリシャのもとに来た時、エリシャが、「ヨルダン川に7回身を浸しなさい」と語った川です。

ナアマン将軍は腹を立てました。何となくその気持ちがわかります。

当時はもう少しきれいだったと思いますが、そう大きく変わらないと思います。

イエス様は、この川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けました。

洗礼を受けて水から上がると、御霊が鳩のように下って来たと聖書は語ります。

空を見上げると真っ青な空に、真っ白な鳩が、何度も頭上を旋回し飛んでいました。

へブル文化では、「~のように」と比喩的に物事を表現することがあります。「神の愛が大波のように~」とか、「聖霊が風のように~」などです。

鳩=神の御霊ではありません。

しかし、鳩が天から舞い降りてくるように、柔和な姿でイエスの上に下って来られたのでしょう。

鳩は穏やかな鳥です。脅かしたり、追っぱらったら、逃げて行ってしまいます。

神の御霊を、蹴散らしてしまうのではなく、歓迎し、迎え入れ、共に歩ませて頂きたいですね。

13 さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。

14 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」

15 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。

16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。

17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」』

(マタイの福音書3章13節~17節)

素敵な一日でありますように。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月21日(水)22時55分3秒
  「男子会」《Now watching 633》

祈祷会の後は、焼き鳥を食べながら語り合っています。心いやされます。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月21日(水)16時13分3秒
  「ギター弦張替え中の痛みと感謝」《Now watching 632》

明日は、路傍伝道ネッワークで栃木県出張予定。そこで「雨でもハレルヤギター」の弦の張替えを行う。1弦が親指に刺さり、血が流れる。たったそれだけでテンション下がる。しかし、イエス様が十字架で血を流されたことを思い感謝に変わった!
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月21日(水)09時42分33秒
  「ネット路傍伝道」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/2/21(水)【1040】)

「路傍」とは、「道のほとり。みちばた。路辺」などの意味ですが、現代ではあまり使われません。

次に「路傍の人」とは、「道を歩いていく人。道ですれ違う人。また、自分とは無関係な人」などを指します。

「路傍伝道」とは、道を歩いていく人。道ですれ違う人。また、自分とは無関係な人など、不特定多数の人に伝道することを意味します。

それなら、「路上(ストリート)ライブ」とか「路上(ストリート)伝道」といった方がわかりやすいですが、あえて、昔からある「路傍伝道」という言葉を使っています。

私は18歳でクリスチャンになりました。救われたその日から駅前で路傍伝道をして来ました。

救われた教会では、毎週伝道集会とセットで路傍伝道が行われていたからです。

その後、神学生になり、別の仲間たちと新宿のアルタ前で路傍伝道を続けて来ました。

牧師になり教会を開拓(新しくスタート)した後も、最寄りの駅前で路傍伝道を続けて来ました。

そして、約一年前から、新しく知り合った仲間たちと「路傍伝道ネットワーク」を作って月に十回程度路傍伝道を続けています。

ところで、私の祖父は牧師でした。

祖父がクリスチャンになったきっかけは路傍伝道でした。

四国から上京して道を歩いていると、淀橋教会の小原十三司牧師から、「そこの罪人よどこへ行く!」と声をかけられたことがきっかけで、教会に導かれてクリスチャンになりました。

祖父は神学校を卒業し、路傍伝道をしながら教会を立てました。その教会で私はクリスチャンになったのです。

それらを振り返ってみると、「路傍伝道」することは、神が私に与えられた使命だったとしか考えられません。

好き好んで駅前や道ばたでゴスペルを歌ったり、聖書を語っているのではありません。

しかし、気がついたら、路傍伝道せざるを得ない状況に導かれているのです。

昭和の初期の頃、駅前や道ばたで路傍伝道をすると、人々が集まり、垣根を作って話を聞いてくれました。チラシを配ると喜んでもらってくらました。

路傍伝道を取り巻く環境が一変しました。

今では、路傍伝道をしていて立ち止まってくれる人は少数ですし、チラシをもらってくれる人もわずがです。

しかし、これが不特定多数の人に福音を伝える効果的な方法なので、やり続けています。

福音が福音として伝わるために工夫をし、聖霊に満たされて神の愛を動機として行っています。

17年前から、インターネットを通して伝道をするようになりました。

当時は、牧師はおろかクリスチャンで伝道する人は皆無でした。

今は、誰も彼もがSNSを通して自由に交流し合いますが、当時は、ホームページのようなものを持っていないと交流の場を持つことができませんでした。

ネットを取り巻く環境が変わりましたが、相変わらず伝道を続けています。

これを「ネット路傍伝道」と呼んでいます。

私の願いはただ一つ、「すべての人に福音を知ってもらいたい!」です。

しかし、同時に、「信じた人がイエス様の弟子となってもらいたい!」「伝道する人に育ってもらいたい!」と願っています。

その思いが、17年間「ネット路傍伝道」を続けさせてくれたのだと思います。

路傍伝道をするといろいろな反応が帰って来ます。

肯定的な反応が大半ですが、ごく僅かですが、非常に否定的な反応が返って来ます。

そのような環境の中で揉まれ、磨かれ、鍛えられています。

ネット上でも同じです。

悲しいことに、クリスチャンが伝道活動に反対することがあるのです。

昨日友人から聞いた話ですが、山手線祈祷会の活動報告をしたら、「そんなことをやっている暇があったら、もっと他にやるべきことがあるのではないか?!」と反対されたそうです。

さらに、路傍伝道に否定的な意見を持つ人もいます。

人々の意見には謙遜に耳を傾ける必要があると思います。

仮に、悪意を持った意見であったとしても、大切な内容が含まれていると思うからです。

しかし同時に、神様のことばに耳を傾ける必要があります。

そして、気持ちが萎えてしまうことがないようにしたいものです。

水をかけられるようなことをいわれた時には、ひざをかがめて神に祈って下さい。神様は慰め、力を与え、さらに、修正すべき点があったら優しく導いて下さいます。

「『主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。』彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。」(使徒の働き4章29節~31節)

一緒に路傍伝道をやっている仲間は、今、次々に火がつけられて、大胆に伝道しています。

ある人は、街中で異端やカルトが伝道している姿を見て、「一緒に思われたくない!」と感じて伝道を控える人がいますが、そんなことではいけません。完全に負けています。

勝ち負けではありませんし、敵は悪魔ですが、イエス様の大宣教命令に従って、ひたむきに伝道するべきです。

路傍伝道ができない人も、今ではSNSが普及して、体験談を通して伝道できます。

インターネットを単に交流の手段としてだけ使うのではなく、イエス様の福音を語るために使いましょう。

「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』」(マルコ16章15節)

「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』」(マタイ28章18節~20節)
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月21日(水)07時11分43秒
  「西壁(嘆きの壁)」

通称、西壁のことを「嘆きの壁」と呼びます。

壁の隙間には、たくさんの祈りが書かれた紙が挟まれています。観光客が入れていくのでしょう。

西壁は、ユダヤ人地区の中では、第二神殿の至聖所があった場所に最も近く、ユダヤ人の聖所です。

いつも宗教的な雰囲気で満ちています。

超正統派のユダヤ人は、黒ずくめの格好で、身体を前後に振りながら、祈祷書を読み、祈っています。

その場所で祈りながら、「クリスチャンは自由だな」と思いました。

自分の言葉で祈り、本音を神に聞いて頂くことができるのですから。

イエス様は言われました。

「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。』」(マルコ11章17節)

祈りはとても楽しい行為です。

大好きな人と語り合い、共に時間を過ごすことが修行でしょうか?

神と語り合い、神と共に過ごす、これ以上楽しい時間はありません。

「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」(詩篇27篇4節)
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月20日(火)20時18分35秒
  「3つのきとう」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/2/20(火)【1039】)

祈りには3つの戦いの領域があります。

1、祈り通す戦い「祈祷(きとう)」
2、祈り闘う戦い「祈闘(きとう)」
3、祈り倒す戦い「祈倒(きとう)」

祈り戦う相手は血肉(人間)ではありません。その背後で働く悪魔です。

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6章12節)

人は、絶えず何かに応戦し、戦いながら生きています。

祈らないと、自分を攻撃するか、人を攻撃することになります。

また、祈らないと自分で問題を解決をしなければならなくなるので大変です。

自分でできることは人任せにしないで自分でやりたいものですが、どんなことでも祈り、神と共に一歩一歩歩み続けていくことが大切です。

生きている限り問題を避けて通ることはできません。

その時、祈り通して、神の助けを頂き、闘い、祈倒(祈り倒)しなが、神と前進していくのです。

最後に、祈ることは当然の権利ではありません。

祈れることに感謝したいと思います。

畏れ多くも、全知全能で、天地万物を創造された神が、「祈っていいよ」「祈りなさい」と言って下さっているのです。

祈りは当然の権利ではありません。神の一方的な恵みです。

このことを忘れると、自分の思った通りにことが運ばないと、「祈ったのに・・・」「信じているのに・・・」と不平不満が出て来ます。

祈れることに感謝しましょう!
そして、徹底して祈っていきましょう!
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月20日(火)13時45分48秒
  「エリヤとエリシャ」《Now watching 631》

どちらがエリヤでどちらがエリシャですか?と聞かれたら困りますが、良い交わりを持っています。エリヤが一人で戦った時には燃え尽きてしまいましたが、エリシャという弟子が与えられて、共同生活をしながら、弟子からパートナー、そして友になっていったのではないかと想像します。そんな友がいるといいですね。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月20日(火)10時29分53秒
  「首都東京のために熱い祈りを捧げます。」《Now watching 630》
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月20日(火)09時50分0秒
編集済
  「仏教僧侶の托鉢と基督教出前牧師の路傍伝道」《Now watching 629》

面識がある訳ではありませんが、外面的には路傍伝道同等の勇気が必要だと思います。私はますます伝道に励みます。

「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』」(マルコ16章15節)
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月20日(火)09時28分39秒
編集済
  「キリスト狂徒3勇士」《Now watching 628》  

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月20日(火)09時09分1秒
  「韓国の牧師たちとの祈りと食事の会」《Now watching 627》

朝から元気になります。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月20日(火)06時46分15秒
  「カルメル山」

カルメル山の意味は、「神のブドウ畑」です。

標高は540メートルで、雨がよく降る場所です。眼下にはキション川が流れていて、雨季には川の水が増えます。

この場所で、エリヤがバアルの預言者450人と戦って勝ちました。

この戦いは、「誰が雨を降らせ、この地を祝福するか?」の戦いでした。

後日エリヤは、命狙われて、ワジ・ケルトに行き、川の水を飲み、カラスに食事を持って来てもらって養われました。

さらに、ツロ・シドンに行って、ツァレファテのやもめに養われました。

エリヤは、「誰が養ってくれるか?」という戦いを自分の中で続けました。

みなさんも、何らかの経済手段を通して収入を手にしていることと思いますが、そういうことを超えて、主が自分を養って下さっていることを信じ切る戦いがあると思います。

主は生きておられます。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月20日(火)00時29分11秒
  「第3月曜日の新宿路傍伝道」《Now watching 626》

今日の路傍伝道はとても盛り上がりました。一人一人の個性が生かされ、輝きました。

普段遠慮がちの人も、大胆に伝道をしました。

とてもすごい時間でした。最高です。

参加して下さった皆さまお疲れ様でした。お祈りして下さった方々に感謝致します。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月19日(月)16時17分59秒
  「心がチクチクする時」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/2/19(月)【1038】)

心がチクチクする原因は、本来の状態から外れている黄色信号です。

聖書は、人は賛美するために創造されたと語ります。

「後の世代のために、このことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された』」(詩編102編19節)

賛美し、感謝する状態から外れて、怒ったり、不平不満を言ったり、否定的な状態を継続するのは、本来の人間の生き方からズレているので、心が悲鳴をあげて、チクチクするのです。

否定的な状態の原因が愛であるなら問題はありませんが、自己中心が原因であるとしたら、悔い改める必要があります。

有名な、マリヤとマルタの話があります。

38,さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
39,彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
40,ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
41,主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
42,しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
(ルカ10章38節~42節)

マルタはイエス様をもてなしました。

マルタは、良いことをしたのに、妹のマリヤが自分を手伝わないで、イエス様の足もとにすわって、みことばに聞き入っていたことに腹を立てました。

もてなしの奉仕をすることは大切だし、主の足もとにすわってみことばに聞き入ることも大切です。

問題は、マルタの心にイエス様がいたのではなく、自分がいたことにあります。

マルタの心にイエス様がいたならば、心の喜びを失うことはなかったはずです。

大好きな人に仕えて、奉仕をしない人を見て腹を立てるというのは、何かがズレているのです。

ある大会で奉仕をしていた時に、一生懸命に奉仕をしていた人が、あんまり奉仕をしない人を見て腹を立てて怒鳴りました。

確かに、仕事をしないで人と話してばかりいたのです。

周りにいた人たちはオロオロして、話してばかりいて奉仕しない人を注意しました。

そのことで、すっかり雰囲気が壊れてしまいました。

原因は、注意した方も注意された方も、心の中にイエス様を迎えていたのではなく、自分がいたことにあります。

お互いにイエス様を心の中心に迎えるべきだったのです。

マルタは、最初はイエス様が中心で、イエス様をもてなしてイエス様に喜ばれたいと思っていたに違いありません。

しかし、イエス様の足もとにすわってじっと話を聞いているマリヤの姿を見た途端、イエス様から目が離れて、自分に目が向かいました。

マルタは、自分に目が向かい、さらに、人の顔色を気にしたりして、世の心使いでいっぱいになってしまいました。

これがイライラの原因です。

マリヤはただイエス様だけを見つめ、イエス様から目を離さず、イエス様で心がいっぱいでした。

イエス様はそれを評価したのです。

奉仕するよりも、イエス様のことばを聞くことが優れているというのではありません。

この時は、イエス様のことばにじっと耳を傾けるのが最善だったでしょう。

しかし、生活もあるのです。イエス様の声に耳を傾けることは第一ですが、仕事も大切です。

大切なポイントは、心の中心にイエス様を迎え続けることです。

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」と言われたのです。

マリヤの心の状態は、私たちの模範です。

心がチクチクする時、それは何かがズレていることを知らせる黄色信号です。

その時、心の中心に誰がいるのかを点検し、イエス様が中心にいないならばイエス様を心の中心に迎えましょう。

そして、神を賛美し、感謝しながら、イエス様のことばを聞き、一生懸命仕事をしてまいりましょう。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月19日(月)13時52分32秒
  「大会のミーティング」《Now watching 625》  

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月19日(月)06時59分39秒
  「鶏鳴教会~ペテロ召命教会」

ペテロはイエス様に、「他の弟子があなたを裏切ることがあっても、私は決してあなたを裏切りません!」と大見栄を切りましたが、その舌の根も乾かないうちに、イエス様を三度否認しました。

これは、単にペテロ一人のことではなく、私たち自身のこととして受け止めたいものです。私たちも同じ弱さを持っているからです。

ペテロは、イエス様が逮捕された後に、炭火が焚かれる薄暗いところで身を隠していましたが、見つかってしまって、「イエスなんて知らない!」と三度語り裏切ってしまいました。

イエス様は、復活した後に、炭火でパンを焼き、食事をしながら、三度裏切ったペテロに、三度「私を愛しますか?」と語り、赦しを与えられ、和解して下さいました。

ペテロの心の傷と罪責感は完全にいやれました。

「彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。』ペテロはイエスに言った。『はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。』イエスは彼に言われた。『わたしの小羊を飼いなさい。』イエスは再び彼に言われた。『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。』ペテロはイエスに言った。『はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。』イエスは彼に言われた。『わたしの羊を牧しなさい。』イエスは三度ペテロに言われた。『ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。』ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。『主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。』イエスは彼に言われた。『わたしの羊を飼いなさい。』」(ヨハネ21章15節~17節)

今日イエス様は、あなたに現れて、あなたの心をいやし、喜びであふれさせて下さいます。

そして、ペテロを召されたように、あなたにも新しい使命を与えて下さるに違いありません。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月18日(日)22時13分4秒
  明日路傍伝道します。  

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月18日(日)14時20分33秒
  「聖別とは?」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/2/18(日)【1037】)

今日の日曜日は「聖別」がテーマでメッセージを語りました。

「聖め別たれる」とは、世とその価値観、罪、悪魔から別たれることです。

その方法は、「神のことば」です。

神のことばを学び、信じ、受け入れるならば、自然に考え方が変わります。

ぶどうの木につながった枝が、自然に成長するように、神のことばが人を自然に成長させてくれます。

父なる神がイエス様をこの世に派遣されたように、弟子たちとクリスチャンは、世から聖別されて、世に派遣されます。

その目的は、父を現し、父を知らせるためです。

私は、高校を卒業してすぐに神学校に入りました。

遊びたい盛りの年頃です。

そんな私が最初に学んだのは「聖別」でした。

今まで味わったことのない喜びと平安を味わいました。

しかし、しばらくすると、古い私の性質が頭をもたげて、「古い生き方をしたい!」と求めました。

古い性質に従うことは、古い自分に食事を与えるようなもので、古い私が復活しました。

古い私は喜びました。しかし、神によって与えられた新しいいのちが失われ、神が遠く感じられました。

古い私と新しい私は、葛藤を覚えました。

これがクリスチャンの葛藤なのです。

パウロは、「誰がこの死の体から私を救い出してくれるのだろうか?」と叫びました。

その答えはイエス様です。

イエス様は私を救い出し、いのちを与えて下さいました。

古い私の悪あがきに答えないで、イエス様に従うならば、聖別され、喜びと平安を味わい、神の栄光を現す神の働きのために用いられます。

教会の説教要約や説教は、最近あまり外に出していませんが、今日は、数人の方々が出張などで礼拝に参加できないため、動画をアップしました。

私たちは、神に愛され、その愛を頂いて、今度は他の誰かを愛し、神の働きに用いられるために造られました。

その目的に従って歩いていきたいですね。

最後に、イエス様は、ご自分を聖別する祈りを捧げました。罪のない完全なお方が聖められる必要があるのでしょうか?

イエス様の聖別とは、ご自身を十字架に献身することです。

私たちは、このイエス様の十字架の死が私の罪のためであったと信じる時に、世から聖別されていくのです。

共に、イエス様が私の罪のために死なれ、墓に葬られ、3日目によみがえられたと信じましょう。

2月18日(日)新宿福興教会日曜礼拝
https://youtu.be/PEDcv_2VXVw
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月18日(日)07時05分29秒
編集済
  「ヴィア・ドロローサ(ラテン語:Via Dolorosa(「苦難の道」の意))」

イスラエルのエルサレムには、イエス様の十字架の道を辿って14ステージを黙想しながら歩けるように巡礼者のために整えられています。

もし霊的な雰囲気を期待して来た人がいたらがっかりするかも知れません。

お店が立ち並び、たくさんの人で満ちています。

しかし、当時もこのような状況だったと思われます。

イエス様は、人里離れた場所で十字架のつけられたのではなく、雑踏の中でもみくちゃにされながらさらし者とされたのです。

ヴィア・ドロローサはクリスチャン巡礼者には欠かさないコースです。

今日、今あなたがいる場所で2000年前のイエス様に思いを馳せなら礼拝したとしたら、そこがヴィア・ドロローサです。

イザヤ書
53章
1,私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。
2,彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
3,彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
4,まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5,しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
6,私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
7,彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
8,しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
9,彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。
10,しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
11,彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
12,それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

日曜日の礼拝の祝福を祈ります。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月17日(土)08時34分15秒
  「後回しをやめて今できる最善を行う」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/2/17(土)【1036】)

子供の頃、嫌なことを後回しにすることが習慣になっていました。

夏休みの宿題は、夏休みが終わる一日前になってから大慌てでやりはじめました。親を巻き込んで大騒ぎでした。

そんな私が、嫌なことを後回しにしないばかりか、今すぐやる人間に変わりました。

イエス様を信じてイエス様と出会う体験するようになってからです。

神学校の授業で出される課題などを、締切が近づいてからやっと重い腰を上げてやりはじめました。

そうすると、授業で習ったことのほとんどを忘れているので、大変な労力が必要です。

ある日、意を決して、授業が終わったその瞬間から取り組むようにしました。

授業で習ったことがまだ頭の中を駆け巡っているので、スラスラ仕上げていくことができました。

イエス様に愛されているとわかったことで、自分に自信が持てるようになり、「今できる最善を行なったら良い!」と考えるようになりました。

このような文章も、思い立った時に書きはじめ、集中して仕上げます。

日曜日に語る説教の準備も、心が燃えた時に一気に準備します。

Eメールの返信は、見たその場で行います。

時々、返信したつもりでし忘れてしまうことがありますが、「返事が早いですね」と驚かれることがあります。

気分が冴えない時の電話、来客は避けたいものですが、物理的に可能ならその場で対応します。

つまり、今できる最善を最善を尽くして行います。

仕事は前倒しして、優先順位の高いことから次々に終わらせて行きます。

そうしたら、時間にゆとりが生まれるかと言えばそうではありません。

神様は、その人の仕事のキャパに応じて仕事を与えて下さるので、次から次に仕事が舞い込んで来ます。

さらに、時間が空いていたら、路傍伝道をしたり、最近教会に来ていない人に連絡をしたり、部屋を掃除したり、次々と仕事が思い浮かぶので、いつも予定がつまっています。

ここ一ヶ月、体調が悪い日が続いています。

私がいなくてもまわる仕事は、気持ちいいくらい次から次へとキャンセルしています。

もちろん、体調が悪い時だけですが、神様が休みを下さったと思って、お詫びをし、ゆっくり休みます。

その間も、インターネットができる環境にあるため、メールの返信や仕事の打ち合わせをしまいます。

いつも何かをしているのが性に合っているのかも知れません。

それは人それぞれだと思いましたが、ぜひおススメしたいことは、後回しにすることをやめて、今すぐ、今できる最善をする習慣を身につけることです。

そうしたら、人生で与えられた時間が何倍にも膨らみます。

たった一度の人生です。今日が人生最後の日かも知れません。

もし、今日が最後の日だとしたら、後回しにしているヒマがあるでしょうか?

今すぐお尻に火がついたように立ち上がって、やるべきことをやりはじめるのではないかと思います。

私が後回しにする習慣から抜け出さなかったとしたら、あなたと出会えなかったかも知れません。

あなた一人に出会うためであったとしても、今すぐやる習慣は大きな意味があったと思います。

いつもありがとうございます。あなたに会えて良かったです。

ステキな週末をお過ごし下さい。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月17日(土)07時22分40秒
  「エルサレム旧市街」

「黄金のエルサレム」という歌があるくらいエルサレムは美しい街です。

「エルサレムを見るまでは、美しいものを見たとは言うな」ということわざもあるそうです。

エルサレムの旧市街は、今も中世の城壁に囲まれ、黄金の街、永遠の街、ダビデの街と呼ばれる。

小さな数百メートルの空間には、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地である「嘆きの壁」「聖墳墓教会」「オマールモスク」があります。

4つの地区に分かれています。

1、ユダヤ人地区
2、アルメニア人地区
3、イスラム教徒地区
4、キリスト教徒地区

それぞれの地区は違う雰囲気に包まれています。

何を信じるかによって、それぞれの世界観が形成され、雰囲気が生み出されるのだと思います。

私は、私のために死んで、墓に葬られ3日目によみがえられたイエス様をじます。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15章13節)

神の愛が私の世界観を一新させて下さいました。

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12章2節)

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第二コリント5章17節)
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月16日(金)21時48分52秒
  「千葉駅伝道」《Now watching 624》

千葉駅東口伝道は、2日前に呼びかけたにもかかわらず、5名が集まってくれました。2時間歌い、語り続けました。1人の男性が興味を持ってくれてずっと聞いてくれました。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月16日(金)17時18分55秒
  「稲毛駅東口で伝道」《Now watching 623》

JR稲毛駅東口で路傍伝道をしました。2人の牧師がおともしてくれました。バス停前に40~50名の人々がバス待ちをしているので、教会で説教をするようにゆっくり語り、ゴスペルを歌いました。今晩7時からは千葉駅東口で路傍伝道します。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月16日(金)14時22分22秒
  「牧師の交わりで心満たされています」《Now watching 622》

教団の教区の集まりがあり、祈ってもらっています。①私の健康 ②教会の活動 ③路傍伝道ネットワークの活動と新聞のために。こんなに真心込めて祈ってもらえることがうれしくて、心がいっぱいです。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月16日(金)13時34分30秒
  「ヤバイヤバイ!」《Now watching 621》

「これカンちゃんですか?」と聞かれた。ヤバイくらい似てると思った。どのお店のモニュメントなのだろう?
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月16日(金)11時06分2秒
  「どのようにして伝道するようになったか?」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/2/16(金)【1035】)

私は、宗教的な家に生まれ育ちました。父方は1000年続く神社の神主の家系、母方はキリスト教の牧師の家系です。

窮屈に育てられたことから、宗教に対するアレルギーがありました。さらに、学校で友達からからかわれて嫌な思いをしたのでなおさらです。

しかし、18歳のある日、人生に行き詰まり、自分から聖書を読みました。

聖書に書かれているイエス様が目の前にいるように感じました。

藁にでもすがりたい思いでいましたのでした。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11章28節)

「イエス様、私を助けて下さい」と語りかけました。

イエス様は私を受け止めて下さり、悲しみが喜びに変わりました。イエス様を信じました。

その時から、イエス様は宗教の教祖ではなく、私の神、私の救い主になりました。

「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」(ヨハネ14章6節)

イエス様は「わたしが道である」と言われました。

「キリスト教」よりも、「キリスト道」と言った方がしっくり来ます。

18歳の時に洗礼を受けました。

所属教会では、毎週路傍伝道をし、その後に、伝道集会が行われていました。

クリスチャンになったその日から路傍伝道をはじめました。

20歳で献身して神学校に進みました。

学校の中でも伝道実習が行われていましたが、新宿駅アルタ前で路傍伝道をするクリスチャンたちのグループと出会って、一緒に伝道をしました。

その伝道がきっかけで、韓国から短期間の宣教旅行に来ていた韓国人女性と出会い、後に結婚しました。

また、新宿で伝道をしていたことがきっかけで、新宿に教会を開拓し、新宿福興教会がはじまりました。

クリスチャンになった日にはじめた路傍伝道は、その後も続けられ、路傍伝道を通して結婚相手と出会い、教会が建てられ、住居を移し、子供4人を含む家族が養われ、現在に至っています。

もちろん、生活の糧を得るために伝道をしているのではありません。

伝道は奉仕です。そして、神が生活を養って下さっているのです。

「それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16章15節)

伝道はイエス様の至上命令です。やってもやらなくても良いことではなく、必ずしなければならないことです。

伝道は難しくありません。ただ伝えたら良いだけだからです。

尻込みしてしまう

人からどう思われるだろうか?
拒否されないだろうか?
嫌われないだろうか?

そのような心配をしたら、尻込みしてしまいます。

「伝えなさい」とだけ言われているのです。

結果は神に任せましょう。

人からどう評価されるか?どう思われるか?も、神様に委ねましょう。

人を集めよう!
大きな教会を立てよう!

と意気込むと疲れます。

イエス様が私の罪のために十字架で死なれ、墓に葬られ、3日目によみがえって下さった。私は救われました。この事実を信じるだけで救われます。信じませんか?

これを伝えたらいいのです。これは路傍伝道のやり方です。

通常は「証(体験談)」をします、

①イエス様に出会う前の私
②イエス様に出会ったきっかけ
③イエス様に出会った後の私

文章にして配ったり、
ネットで投稿したり、
家族・友人・知人に語ります。

語る時に、いきなり職場や学校で、「イエス様を信じましょう!」とまでやる必要はありません。

自己紹介をする時に、
「私は毎週日曜日に教会に通っています」
「私はクリスチャンです」

と語るくらいで十分です。

ある日、「あなたクリスチャンなんでしょう。その話を良かったら聞かせて!」と言ってきます、

その時はじめた、3分以内くらいで、上記の①~③のポイントで体験談を話したら良いのです。

しかし、私が行っている駅前での路傍伝道は、全く知らない人への伝道です。この場合には、音楽を通して足を止めてもらい、短く簡潔にイエス様を伝えます。

時々、こんなことを聞かれることがあります。

「路傍伝道でどのくらいの人がクリスチャンになったのですか?」
「教会には何人が来ましたか?」

その時、その人数を言うことができますが、路傍伝道の真価はそういうところにあるのではありません。

種まきですから、効果は計り知れません。

ある人が路傍伝道をしても、一人もクリスチャンにならないし、一人も教会に行かないかも知れません。

しかし、その人が死んだ後に、その路傍伝道を通して、何万、何十万の人がクリスチャンになったという実際の話があるのです。

イエス様は、「たくさんの人を集めなさい」「大きな教会を建てなさい」と言われたのではなく、「行って伝えなさい」と言われました。

私たちの責任は、ただ行って伝えることです。

その先は神様の領域です。

「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」(マルコ16章20節)

弟子たちは、出て行って、至る所で福音を伝え、神は、弟子たちと共に働いて、みことばに伴うしるしを通して、それを確証されました。

弟子たちが語ったのは、イエス様から教えられた通りの福音でした。

神は、弟子たちが語った福音を確かなものとされました。

その日、3000人や5000人が救われました。病気がいやされ、悪霊が追い出され、イエス様がなさったことと同じことが起こりましたし、地域やスケールを考えたら、もっと大きなことが弟子たちを通して行われました。

イエス様が語られた通りです。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」(ヨハネ14章12節)

難しいことを考えないで、時が良くても悪くても、いつでも、どこでも、誰にでも伝道していきましょう。

伝道のために、聖霊に満たされるように祈りましょう。

そして、出て行きましょう。

一人でやる勇気がなくても大丈夫です。イエス様は二人一組で派遣されました。

教会単位で行えたらベストです。

また、私たちと一緒に伝道しませんか?

路傍伝道ネットワーク https://m.facebook.com/groups/725359987641943

聖書には、たった一人が歴史を動かした人物伝で満ちています。

しかし、一人ではありません。一人では何もできなくても、神が一緒です。どんなことでもできます。

神様が一緒ならできないことはありません。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(第二テモテ4章2節)

ここまで読んで下さりありがとうございました。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月16日(金)07時31分38秒
  「ゲッセマネの園」

人類史上最大の戦いが、ここゲッセマネの園で行われました。

ゲッセマネとは、「油しぼり」という意味ですが、イエス様は、油ではなく、ご自身の血潮をしぼり出すかのような格闘をされました。

イエス様が、神の怒りの杯を飲み、一度も父なる神と離れたことがないのに、父と分離され、捨てらました。

罪のために壊れた宇宙を回復させ、弟子たちと私たち全人類を救う壮絶な戦いでした。

「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」(ルカ22章44節)

血の汗を滴らせるほどの壮絶な戦いでしたが、最後は永遠に変わらない勝利を取られました。

このあとイエス様は、まっすぐに十字架に向かわれました。

?イエスは勝利を取られた
十字架の上で
イエスは勝利を取られた
十字架の上で

イエスは勝利を
すでに取られた
イエスは勝利を
すでに取られた?
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月15日(木)20時14分29秒
編集済
  「語ることで益を得る」《Now watching 620》

私は、いろいろなところで講演を頼まれて講演をしてきました。

「誘われた食事はなるべく断らないが、頼まれた講演(説教)は絶対に断らない!」が私のモットーです。

頼まれた説教を一度も断ったことがないと思います。

半分はキリスト教内の説教や講演ですが、半分はキリスト教外の講演です。

キリスト教外の講演では、「どれくらい聖書の話をするべきか!?」で迷うことがあります。

無理に聖書の話をし過ぎることで逆効果になることがあるものです。教会の牧師というタイトルで講演できるだけで感謝です。

講演は、何らかの問題提起をし、それに対する解決を提示して話を締め括ります。その過程において、聖書の言葉を引用します。

無理にこじつけて聖書を語ることはありませんが、話の流れの中で自然に聖書に触れます。その時は遠慮なく大胆に語ります。

どんな講演でも深く祈ってから行いました。

教会で行う説教は慣れているから楽だろうと思われるかも知れませんが、講壇から聖書を語ることは畏れ多いことです。祈り抜きに、講壇に立つことはできません。

お葬式や結婚式での式辞は、絶対に失敗が許されません。ピタッと決めなくてはいけません。冠婚葬祭の司式も、全く気が抜けません。

一般講演も緊張します。どこまで心を通わせることができるだろうか、私の話がどのように受け止められるだろうか、考えれば考えるほど緊張します。

しかし、終わってみると、本当に語って良かったと思います。特に会衆と心が通った時はなおさらです。

話を聞く人は、聞くことによって益を得ますが、語る人も、語ることによって自分の話を聞いて確信を深めたり、液を得るものです。

語る機会が与えられ、力を得ることができました。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月15日(木)09時13分45秒
  「いたちごっこであったとしても」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/2/15(木)【1034】)

「いたちごっこ」とは、江戸時代にはやった双方で同じことを繰り返す子供の遊びです。

そのことから、同じことの繰り返しで、キリがなく、埒のあかない状況をたとえて表現します。

最近、携帯電話の番号を利用したショートメールで、沢山のジャンクメールが送られて来ます。しかも、次から次にアドレスを変えて送って来ます。

その都度、着信拒否にした上でメールを削除しますが、ひどい時には、1日に100通も届いたことがあります。

まさにいたちごっこです。

相手は、何が楽しくてそれをやっているのかわかりませんが、無意味にやっているのではないと思います。

もしその相手に返信でもしようものなら、さらに状況はひどくなるはずです。

秋や冬になると、木の葉が枯れて落ち葉となります。ほうきで掃いても掃いてもまた木から葉が落ちて来ます。

「どうせまた落ちて来るのだから」と言って放置していたら大変なことになります。

今ある落ち葉を掃いて捨てたら、放置しているよりもその分落ち葉が減ります。

いたちごっこのように思えても、放置するのではなく、気がついたら掃いて捨てることを繰り返すことが懸命です。

雪国で、屋根の雪下ろしや道路の雪かきをしないで放置していたら、大変なことになります。

屋根の雪下ろしをしても、道路の雪かきをしても、また雪が降って来て雪が降り積もります。

いたちごっこのようですが、それでも屋根の雪を下ろし、道路の雪をかく必要があります。

私たち人間の罪もそれと似ています。

一つの罪を犯すことで、その罪を隠すためにウソをつき、隠蔽工作をし、さらに、口封じをするなど、いくつもの罪を犯し続ける選択もあります。

人間は罪を犯したくないと思っても、仕方なく罪を犯してしまうことがあります。

罪を犯したから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯し続けるのです。

「仕方ない」と擁護したり、誤魔化したり、隠ぺいしたり放置し続けるなら、罪が幾重にも重なって身動きができなくなり罪責感で押しつぶされるか、罪を犯すことに対して無感覚になって、極悪人になってしまう可能性があります。

罪を犯したことに気づいたら、直ちに罪を認め、捨て去ることです、

それが神に対する罪なら、神様に悔い改めて赦しを頂きましょう。

「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(第一ヨハネ1章7節)

さらに、それが人に対する罪ならば、人に対してお詫びをし、必要に応じて代価を払って和解するべきです。

ただ、人に対して「殺したい!」と思ったなど、心の中で犯した罪に関しては、神にだけ悔い改め、心と思いを変えて接していったら良いでしょう。

聖書が教える罪とは、神との関係が壊れ、神と離れた状態である原罪を指します。

私たちの罪のために十字架で死なれ、墓に葬られ、3日目によみがえられたイエス様を救い主と信じることが唯一の解決方法です。

罪が赦され、神と和解しても、古い罪の性質が残っています。

罪の赦しを経験した人は、「もう罪を犯したくない!」と思うものですが、仕方なくまた罪を犯してしまいます。

罪は神と人と自分との関係を壊しますので、そこに痛みがありますので、意思では罪から離れようとしても、罪の性質が罪を慕い、罪を犯してしまいます。

その時、罪を認め、直ちに悔い改め、直ちに、落ち葉を掃き、雪をかくように、罪を取り除いていきましょう。

いたちごっこのように思えてもとても大切なことです。

どんなに立派に見える人でも、罪を犯さない人はいません。程度問題です。

だから、毎日毎日、気がついたその時に悔い改めていきましょう。

それが人を幸せにし、祝福する生き方なのです。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月15日(木)06時56分37秒
  「白く塗った墓」

オリーブ山に、やがてキリストが来られるとユダヤ教徒も、イスラム教徒も、キリスト教徒も信じています。

だから、復活の望みを持ってたくさんのお墓があります。

お墓に触れると宗教的に汚れると考えられたため、目立つように、お墓を白く塗りました。

イエス様は、目の前にある白く塗った墓を指差しながら、次のように語りました。

「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。

そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」
(マタイ23章27節~28節)

白く塗った墓は、表面はきれいです。同じように、偽善者も表面はきれいにつくろっていますが、中はウジやガイコツでいっぱいだ、と辛辣に、痛烈に批判しました。

イエス様は、自らの罪を認め、救いを求める人を叱ったことは一度もありません。

しかし、自分の心のうちに罪があるのに、自分を義として、他者を見下し、裁く人には、とても厳しい対応をされました。

偽善者は嘘つきです。

神の目から隠せるものは一つもありません。神の前に素直になって、罪を認め、お詫びし、赦しと和解を受け取りましょう。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月14日(水)23時31分11秒
編集済
  「あなたの親友」《Now watching 619》

ファミリーレストランJonathanで食事会をしました。今日は超多忙な一日で疲れましたが、楽しい食事の時間が疲れをいやしてくれました。「Jonathan」とは、ダビデの親友の「ヨナタン」です。ヨナタンは、その父サウルからダビデのいのちを守りました。ダビデとヨナタンの心は一つでした。そんな友達がいたら最高です。しかし、ヨナタンのような友達を持てなくても、さらに最高の友達を知っています。イエス様です。この方は、あなたの親友となって下さいます。

== 讃美歌312番 いつくしみふかき ==
いつくしみふかき ともなるイエスは
つみ とが うれいを とりさりたもう
こころのなげきを つつまず のべて
などかは おろさぬ おえる おもにを
What a Friend we have in Jesus,
all our sins and griefs to bear!
What a privilege to carry
everything to God in prayer!
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月14日(水)08時25分46秒
  「バレンタインデーに愛について考える」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/2/14(水)【1033】)

小学1年生の2月14日の放課後、いきなり数人の女の子が自宅を訪問してチョコレートをくれた。

意味もわからず、ただ大喜びしてチョコレートを食べたことを思い出します。

異性を意識するようになってからは、チョコレートよりも、そのチョコレートに込められた気持ちやメッセージがうれしかったです。

今では、時々義理チョコをもらいますが、みんなに配っているついでであってもうれしいです。

今日、多くの女の子・女性が準備したチョコレートを誰かに渡すことでしょう。

好き嫌いがある。これが人間である証拠です。

人は神に似せて創造されました。

神には好き嫌いがあります。聖書を読めばわかります。

神はあなたが好きです。そして、罪は嫌いです。

本来の人間は、神が好きなことが好きで、神が嫌いなことを嫌っていました。

しかし、先祖アダムとエバは、悪魔にそそのかされて禁じられていた善悪の知識の木の実を食べたことにより、神との関係が壊れました。

神が好きなものを嫌い、神が嫌うものが好くようになりました。

罪の誘惑に自ら進んで従うようになり、罪の奴隷となりました。

互いに愛し合うべき人間関係にヒビが入り、アダムとエバの2人の息子は、兄が弟を殺すという殺人事件が起こりました。

人は神に似せて創造されたので、素晴らしい存在のはずです。しかし、罪が人間を壊滅的に破壊してしまったのです。

この人間を救うために、神の一人子イエス様がこの地上に来られ、救いの道を開いて下さいました。

イエス様は、私たちの罪のために十字架で死なれ、墓に葬られ、3日目によみがえられました。

この事実を信じるならば、罪が赦され、神の子とされ、永遠のいのちをいだたくことができます。

さらに、罪によって破壊された人間性を回復することができます。

ただ、救いは確定し、救いはスタートしましたが、それが成就するには一生という時間が必要です。

救いには、「義認」「聖化」「栄化」という3つの次元があるからです。

イエス様を信じたならば、イエス様の義が転嫁されて、義と認められます。しかし、この時点では、古い罪の性質が残っています。

古い罪の性質が聖められ、イエス様の姿に変えられるプロセスを「聖化」と言います。

そして、やがてイエス様の前に立った時に、栄光の体に変えられて、救いが完成し、成就します。

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(第二コリント3章18節)

このことを知らないと、「あの人はクリスチャンのくせに・・・」と裁いたり、自分を良く見せようと偽善的になります。

イエス様を信じた私たちは、工事中です。

今、私が仕えている新宿福興教会のすぐ前では工事が行われています。

先日TV番組の収録をした時には、「カンカンカンカン」「ガタガタガタガタ」と音が入ってしまいました。

ディレクターの人は、「また撮り直しても同じように音が入ってしまうでしょうから仕方ないですね」と「OK」を出してくれました。

わざと迷惑をかけているのではありません。

やがて教会の建物を立て直す時には、同じように騒音などの迷惑をかけることになります。

お互い様です。

私たちは、お互いに迷惑をかけ合いますが、受け止め合い、許し合い、受け入れ合い、助け合っていきたいものです。

イエス様は、「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」と教えられました。

イエス様が、まず私たちの救いのために十字架にかかって死んで下さいました。

バレンタインデーに、このイエス様の愛を思って、信じ受け入れましょう。

頂いた愛を心ゆくまで味わいましょう。

そして、味わった愛を今度は他者に分かち合っていくのです。

天国に行く日まで、毎日イエス様の愛を味わい、それを分かち合っていくことが互いに愛し合う秘訣です。

インターネット上で、言葉尻を捉えてすぐに人を非難したり、挑んだり、悪く書き込むコメントを見ることがありますが、それを控えることも愛です。

相手の書き込みに対して言葉尻を捉えてカッとして否定するよりも、もっと大局的に見て、相手が何を言いたいのかに耳を傾けてみて下さい。

「なるほど」と感じられる部分が必ずあるはずです。

共感し共鳴した上で、好意的なコメントをしたら、良い人間関係が築けるはずです。

聖書が教える愛は、そんなところからはじまるのではないかと思います。

バレンタインデーに愛について考えたいですね。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月14日(水)06時32分52秒
  「アダムの墓」

アダムの墓といわれる場所が、イエス様が十字架につけられた場所の真下にあるそうです。

本当かどうかは別ですが、アダムの罪が全人類に罪をもたらしましたが、第二(最後)のアダムであるイエス・キリストの流された血潮によって、原罪の源流が聖めらるというのは、聖書的なメッセージです。

「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。

すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」

(コリント人への手紙第一15章21節~22節)

イエス様は私たちの救い主(キリスト)です。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月13日(火)19時59分54秒
  「疲れる集まり、元気になる集まりを超えて」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/2/13(火)【1032】)

3週間前は喘息発作で体調が悪く、2週間前は関西・東海宣教旅行に出かけ、1週間前は浜松に奉仕に出かけ、昨日・今日と神学校の同窓会に出かけました。

新しい発見がありました。

出かけることで疲れる集まりがありますが、疲れないどころか元気になる集まりがあることです。

関西宣教旅行は究極に楽しく、名残惜しい気持ちで帰って来ました。

昨日・今日の同窓会は、心が満たされて、元気になって帰って来ました。

疲れる疲れないは、肉体的に忙しい忙しくないとも関係はありますが、それ以上に、ありのままで楽しく過ごせるかどうかの方がカギではないかと思います。

ただ、人生を生きていて、楽しいことばかりではありませんよね。

しかし、どんな時にも感謝をすることで、楽しくなくても、喜びに溢れた時間を過ごすことができます。

感謝を習慣化することです。

楽しくないのに感謝するのには戦いがあります。

しかし、感謝はすべてを好転させる力です。

思い出すたびに感謝し、また感謝し、また感謝して歩んでいきましょう。

神様が良いお方である。これだけで十分感謝する理由になります。

同窓会が楽しかったのは、感謝に溢れた会だったからです。

みんなで感謝したので、心が喜びでいっぱいでした。

クリスチャンは、意思によって感謝します。しかし、神様を信じていない人は、感謝できる環境や雰囲気がなければなかなか感謝できません。

だからこそ、喜びを作り出す人になって、あなたが部屋に入って行くだけで雰囲気が変わり、みんなが笑顔になるような人になれたら素敵ですね。

喜びを作り出す人は、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝している人です。

聖書は語ります。

「いつも 喜んでいなさい。絶えず 祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト ・ イエスにあって、神が あなたがたに 望んでおられることです。」
( テサロニケ人への手紙 第一 5章16~18節 )
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月13日(火)14時32分55秒
  「日本全国路傍伝道の旅第三弾 宇都宮駅下見」《Now watching 618》

2月22日の宇都宮駅伝道の下見に来ました。人の少なさに新鮮さを感じると共に、ここまで人が居ないところで路傍伝道ができるだろうかと思案中。静かな街なので、静かさを壊さないで、テーブルを出して聞き屋をするか、「聖書を無料で差し上げます!」というブースを出すなどもイメージしながら祈っています。結局いつものスタイルになるかな。 下見をして良かったと思います。駐車場は駅前にもかかわらず30分で100円。24時間の最大料金は1400円と激安。この街にも神の愛が必要です。2月22日(木)午後6時45分にJR宇都宮駅西口歩行者用2階デッキに集まりませんか。そして、路傍伝道しましょう。
イベントページ https://www.facebook.com/events/561994904178244/?ti=icl
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月13日(火)04時45分28秒
  「オリーブ山山頂」

「女心と秋の空」あるいは「男心と秋の空」と言われますが、季節の変わり目のイスラエルの天候はコロコロ変わります。

滞在した10日間の中で、春、初夏、夏、秋、真冬をそれぞれ体験しました。

この日の気温は0度で、エジプト方面から吹く風が砂を運んでエルサレムは霧に包まれているようでした。

しばらくすると雨が降って来て、白い皮のジャンパーに雨が洗い流す砂ぼこりが泥となってついてしまいました。イスラエル旅行での良い思い出です。

季節は変わり、人は変わりますが、しかし、主のことばは、とこしえに変わることがありません。ありがたいですね。

「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」(第一ペテロ1章24節~25節)
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月12日(月)22時20分50秒
  「恵まれるって必要」《Now watching 615》

卒業後はじめての同窓会。私は賛美を担当。明日は、「出前牧師と路傍伝道ネットワークの話をお願いします」といわれましたが、何も考えていない。こういう場所では原稿を読むよりも、その時その人々の中で語れる最高のものを分かち合ったら良いのかも知れないと考え、ゆったり過ごしています。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月12日(月)16時15分29秒
  「神学校の同窓会 ~仲間に感謝~」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/2/12(月)【1031】)

神学校と名の付くところは6つ学びましたが、その1つの神学校の一泊同窓会が行われています。約30人が日光に集まりました。

なぜ、勉強嫌いな私が計17年も神学を学んだのか?

自分でもよくわかりません。

しかし、聖霊に満たされる体験をしたことで、本来の自分が目覚めて、勉強が好きでたまらなくなりました。

古い壊れている私は、セルフイメージが低くて、怠惰と自己満足に陥っていました。

イエス様を信じて新しく生まれ変わったことで、全然違う人に変わってしまったのではなく、神様が創造して下さった私が回復したのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第二コリント5章17節)

イエス様を信じて、新しく生まれ変わって、聖霊に満たされたら、本来のあなた自身が回復します。

ぜひ、その恵みに共に預かりたいですね。本来のあなたは、自分でも想像できないほど可能性に満ちた人です。

同窓会が開かれて感謝です。

昔の神学校の仲間と再会を喜び、笑い合い、楽しく語り合っています。

「2020年には、もっと盛大に、全卒業生が集まる同窓会をしましょう!」と発表されました。

仲間がいるってことは、本当にありがたいです。

もちろん、教会の信徒のみなさん、ネット上の皆さんも仲間であり、ファミリーです。

いつもありがとうございます。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月12日(月)07時53分14秒
  「イスラエルのカイザリアの町」

カイザリアは、ヘロデ王が皇帝アウグストのために建てた港町です。

3500席を有する円形劇場があります。ここで賛美歌を歌いました。マイクなしで全体に響き渡りました。

イエス様は、これと似た地形のガリラヤ湖岸で、マイクなしで約2万人に説教を語った謎が解けました。

カイザリアの町で、異邦人第一号のクリスチャンが誕生しました。コルネリオです。

少し長い箇所ですが聖書を引用します。

使徒の働き
10章
1,さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。
2,彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、
3,ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼のところに来て、「コルネリオ」と呼んだ。
4,彼は、御使いを見つめていると、恐ろしくなって、「主よ。何でしょうか」と答えた。すると御使いはこう言った。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。
5,さあ今、ヨッパに人をやって、シモンという人を招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれています。
6,この人は皮なめしのシモンという人の家に泊まっていますが、その家は海べにあります。」
7,御使いが彼にこう語って立ち去ると、コルネリオはそのしもべたちの中のふたりと、側近の部下の中の敬虔な兵士ひとりとを呼び寄せ、
8,全部のことを説明してから、彼らをヨッパへ遣わした。
9,その翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまで来たころ、ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時ごろであった。
10,すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが、食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢ごこちになった。
11,見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅をつるされて地上に降りて来た。
12,その中には、地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。
13,そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。
14,しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」
15,すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」
16,こんなことが三回あって後、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。
17,ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑っていると、ちょうどそのとき、コルネリオから遣わされた人たちが、シモンの家をたずね当てて、その門口に立っていた。
18,そして、声をかけて、ペテロと呼ばれるシモンという人がここに泊まっているだろうかと尋ねていた。
19,ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。
20,さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」
21,そこでペテロは、その人たちのところへ降りて行って、こう言った。「あなたがたのたずねているペテロは、私です。どんなご用でおいでになったのですか。」
22,すると彼らはこう言った。「百人隊長コルネリオという正しい人で、神を恐れかしこみ、ユダヤの全国民に評判の良い人が、あなたを自分の家にお招きして、あなたからお話を聞くように、聖なる御使いによって示されました。」
23,それで、ペテロは、彼らを中に入れて泊まらせた。明くる日、ペテロは、立って彼らといっしょに出かけた。ヨッパの兄弟たちも数人同行した。
24,その翌日、彼らはカイザリヤに着いた。コルネリオは、親族や親しい友人たちを呼び集め、彼らを待っていた。
25,ペテロが着くと、コルネリオは出迎えて、彼の足もとにひれ伏して拝んだ。
26,するとペテロは彼を起こして、「お立ちなさい。私もひとりの人間です」と言った。
27,それから、コルネリオとことばをかわしながら家に入り、多くの人が集まっているのを見て、
28,彼らにこう言った。「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが、神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。
29,それで、お迎えを受けたとき、ためらわずに来たのです。そこで、お尋ねしますが、あなたがたは、いったいどういうわけで私をお招きになったのですか。」
30,するとコルネリオがこう言った。「四日前のこの時刻に、私が家で午後三時の祈りをしていますと、どうでしょう、輝いた衣を着た人が、私の前に立って、
31,こう言いました。『コルネリオ。あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前に覚えられている。
32,それで、ヨッパに人をやってシモンを招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれている。この人は海べにある、皮なめしのシモンの家に泊まっている。』
33,それで、私はすぐあなたのところへ人を送ったのですが、よくおいでくださいました。いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。」
34,そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、
35,どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。
36,神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。
37,あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。
38,それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。
39,私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行われたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。
40,しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現れさせてくださいました。
41,しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。
42,イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。
43,イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」
44,ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。
45,割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。
46,彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。そこでペテロはこう言った。
47,「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」
48,そして、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように彼らに命じた。彼らは、ペテロに数日間滞在するように願った。
(使徒の働き10章1節~48節)

イエス様は、ユダヤ人の王としてこの地に来られました。

ユダヤ人は、イエス様を拒絶して十字架にかけて殺しました。

イエス様の福音は異邦人に伝えられました。

後日、ユダヤ人の中にイエス様を救い主と信じる人々が出て来ました。メシヤニック・ジューと呼ばれます。

異邦人のクリスチャンは、イエス様を信じたユダヤ人に、異邦人のようになることを強要しました。

ガイドさんはメシヤニック・ジューでした。そんな歴史を思い起こして、互いに祈り合い、祝福し合いました。

「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」(ヤコブ書5章16節)

天国への旅路を、互いに支え合い、助け合って進んでいきましょう。ステキな1日でありますように。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月11日(日)23時46分30秒
  「大人と高校生の交わり」《Now watching 603》

今日の夕方の集会の後は、高校生の交わり、社会人の交わり、大人の交わりに分かれて語り合いました。時間があっという間に過ぎました。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月11日(日)14時33分57秒
  「私について来なさい」

イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けたヨルダン川の場所は、ガリラヤから100Km以上南に下った場所にあります。

イスラエルに行って、この地形や距離感を知ることができてとても有意義でした。

緑豊かなガリラヤから、石と青空と雲と、ヨルダン川しかないユダの荒野に下って来て、イエス様は洗礼を受けられました。

イエス様は神の一人子ですから、悔い改めの洗礼を受ける必要はありませんが、私たち人類を代表して、私たちに先立って洗礼を受けられました。

これはジョークですが、ユダヤ人のラビが、一人息子がユダヤ教から改宗して、クリスチャンになってしまったことを嘆いていました。嘆きながら神にその苦しい心境を訴えました。父なる神から答えが返って来ました。「私の一人息子もクリスチャンになったよ」。

イエス様が歩まれた道は、私たちが歩むべき模範でもあります。

イエス様は私たちに、「行け!」と言われるのではありません。「私について来なさい」と言われます。

もちろん、「行きなさい」と言われることもあります。しかし、その時は、「私はあなたと共にいる」と言われます。

イエス様と共に、今日も素敵な一日を歩んでいきましょう。

聖書を引用します。

『13 さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。

14 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」

15 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。

16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。

17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」』

(マタイの福音書3章13節~17節)
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月11日(日)07時50分29秒
  「路傍伝道新聞2月号の巻頭言」
《巻頭言》「人のピンチは神のチャンス」

路傍伝道新聞は、今回で第5号目になります。新聞がはじまった経緯は、昨年10月9日(月・体育の日)の東京基督教大学学園祭(シオン祭)で、路傍伝道ネットワークのブース出展が急きょ決まったことから、ブースの来訪者に手渡すべく考えて慌てて発行することになりました。しかし、第4号まで作ってくれた人が諸事情により退任することになり、年末年始は大慌てでした。聖書を読みながら祈っていると、ヘブル書11章の聖句に目が留まりました。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブル11:1)や「信仰によって・・・」、「信仰によって・・・」などの聖句を読んでいるうちに、信仰を失っていたことに気づきました。「神様がはじめて下さったのだから、必ず続けさせて下さるに違いない!」と信仰を取り戻しました。先取りの感謝の祈りを捧げました。夜も眠れない日が続きましたが、それ以来ぐっすり休むことが出来ました。翌日には、新聞制作のバトンタッチをしてくれる人が現れました。プロの方ですので、以前以上に素晴らしいデザインの新聞に生まれ変わりました。神様は、マイナスをプラスに変えて下さるお方です。つまり、「人のピンチは、神のチャンス」なのです。皆様が今試練の中に置かれていたとしても、人のピンチは神のチャンスと考えて、先取りして感謝の祈りを捧げて下さい。神様は生きて働いておられます。その解決の体験が信仰を強め、深め、高めていくに違いありません。そして、その信仰の証が強い伝道の力になっていくのです。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月10日(土)08時14分7秒
編集済
  「無理に励まさない方が良い」

悩んでいたり、気落ちする人を見たら、何とか励まそうとして、逆に、傷口に塩を塗るように傷つけたり、寂しい思いをさせてしまうことがあるのではないでしょうか。

ある日、神学校時代の同級生の奥さんが、癌で天に召されました。まだまだ若い方なのでびっくりしました。一報が携帯電話に入った時、東北宣教旅行をしていました。お葬式には参列することが出来ませんでした。

帰宅後、同級生に電話をかけました。電話の向こうの彼の声を聞いたとたん、言葉を失いました。約1分間の沈黙が続きました。

同級生は、「みんな、『奥さんが天国に行けたから感謝ですね』と言ってくれるけど、僕は全然そう感じていない。寂しい、つらい、悲しい。カンちゃんが沈黙で僕の気持ちを理解してくれたことがうれしかった。ありがとう。」と言ってくれました。

現代は、4人に1人がうつ病の傾向にあると言われます。うつ病の人に、「がんばりましょう!」という言葉は禁句です。

「がんばりましょう!」という言葉がいけないのではなく、がんばりたくてもがんばれない人に、「がんばれ!」と言うのではなく、その苦しみや弱さを理解し、そっとそばにいてあげることだけでもどんなに大きな助けを与えてあげられるでしょうか。

がんばれる力は、神が与えて下さいます。

神は遠く離れておられるのではありません。あなたのすぐそばにおられ、あなたの存在の一部となり、あなたを理解して下さいます。

イエス・キリストには「インマヌエル」という別名があります。「神、我らと共にいます。」という意味です。キリストは、いつもあなたと共におられます。

キリストは、2018年前のクリスマスに、人間の姿となって臭い汚い家畜小屋の飼い葉おけで生まれました。なぜキリストは救い主なのに、最高の環境に生まれなかったのでしょうか?

キリストが、きれいな宮殿に生まれたとしたら、私たちがきれいにならないと会ってくれなかったでしょう。しかし、貧しく劣悪な環境の中生まれました。

家畜小屋の飼い葉おけとは、私たちのありのままの心を象徴します。誰にも見せたくない知られたくない心の闇、恥ずかしい罪で汚れたところに来て下さることを象徴しています。

今日、キリストを心に迎えてみませんか?

キリストは、あなたを無理に励まそうとしたり、あなたを変えようとはしません。ただ共にいて下さり、慰め、受け入れ、赦し、愛して下さいます。

その愛を体験したら、人を無理に励ますのではなく、その人に必要な助けを与えられる人になります。

勿論ケース・バイ・ケースですが、無理に言葉をかけて励ますよりも、じっと黙って寄り添う方が助けになるものです。

ステキな1日でありますように。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 2月 9日(金)20時35分9秒
  「祈りに力がある」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/2/9(金)【1028】)

4日間浜松で行われた大会を終えて帰宅しました。

帰宅後に疲れが出て来たので小1時間休んでから祈祷会を開催しました。

「祈りには力がある」と強く思わせられました。

問題があった時に、人に相談したり頼るよりも、まずは神に祈りたいものです。

人に助けを求めるのは、神様に導かれた時です。

「どうか、敵から私たちを助けてください。まことに、人の救いはむなしいものです。神によって、私たちは力ある働きをします。神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方です。」(詩篇60篇11節~12節)

どんな時にも神様に祈り、神様に頼って参りましょう。
 

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