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(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月19日(木)17時59分21秒
  「好ましい状況と思わしくない状況にどう処するか?」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/4/18(木)【1096】)

「好ましい状況」とは、願った通りに物事が進んでいる時で、飛ぶ鳥を落とすような勢いのある時です。

「思わしくない状況」とは、「差し迫った危険や不都合があるさま」あるいは、「景気や進捗などが、成長や進展を見せず止まってしまっているさま」を指します。

人生を生きていると、不都合な状況に陥ったり、停滞して成長や進展がない状況に陥ることがあります。

そんな時、
①忍耐を学ばせて頂いていると受け止めましょう。
②そのマイナスがプラスに変わると信じて、先取りして感謝をしましょう。
③祈って神との関係を修復しましょう。

そうしたならば、思わしくない状況は祝福に変わります。

物事は、良い状況か、思わしくない状況かのどちらかです。

良い状況の時には、感謝し、高ぶることがないように注意したいものです。

思わしくない状況の時には、耐え忍び、感謝し、祈る時としたいものです。

問題があるかないかは問題ではありません。問題を認識した時に、それに対してどう処するかこそが問題です。

思わしくない状況に直面した時に、健全な対応をするならば、人生の半分に処する秘訣を心得たことになります。

問題は、好ましい状況に置かれている時です。気が緩み、高慢になり、道を踏み外す危険が迫っています。

そんな時こそ、感謝しつつ、謙遜になることを努めたいものです。

TVを見れば、気が緩み、高慢になり、道を踏み外す人の姿を見ることができるはずです。

一番危険なのは、好ましい状況なのかも知れません。

どんな状況の中にあっても、それに処する秘訣を心得て、生きていきたいものです。

『乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。』 (ピリピ4:11~13)
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月19日(木)09時27分14秒
  「東京くらし防災」
《Now watching 747》

今年の「東京くらし防災」のブックは郵便局に置かれています。女性の目線からの編集がされているそうです。一読をお勧めします。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月19日(木)06時45分55秒
  「心と体の黄色信号」

「気分がさえない」「体調が優れない」というのは、心や体が発する「黄色信号」です。今のままだと、やがてそれが「赤信号」に変わり、うつになったり、心や体の健康を損なってしまう可能性があります。

心と体が発する「黄色信号」に感謝し、「考え方」「心の姿勢」「生活リズム」「睡眠時間」「食生活」などを点検し、見直してみて下さい。

ある人は、この「黄色信号」が微弱であったり、忙しさの中で見落としてしまうことがあります。

どうしたら、心と体が発している「黄色信号」をキャッチすることができるのでしょうか?

朝起きたら、まずパソコンやTVの電源を入れたり、スマホやケータイを見る前に、聖書を開き、神に祈る時間を持つことです。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩篇46:10)と聖書は語ります。

この「静まって」という言葉は、原文のヘブル語では、「?????(ラーファー)」という言葉で、「やめる」や「静まる」という意味があります。

「静まる」ためには、祈りを通して「沈黙」することから始まり、「止まること」です。

「静まり」「沈黙」する時に、体や心が発する「黄色信号」を見落とすことがありません。

次に止まることです。

「正しい」という漢字は、「一」の下に「止まる」と書きます。

正しさとは、唯一の神の下に、私たちが静まり、止まるところから正しさが始まることを教えてくれます。

「黄色信号」を見て、アクセルを踏み込んで、加速して交差点を渡ることもできます。

交差点の信号は、一時的に全部赤に変わりますが、見切り発車をする車やバイクがいるかも知れません。

黄色信号は、止まるか、減速して渡ることが安全です。交通事故の70%以上が交差点で起こっています。

道路の信号機同様に、体と心が発する「黄色信号」をキャッチしたら、減速し、止まりましょう。

「頑張ることをやめて」「力を捨て」、「神との深い交わり」をして、神との関係の中で、「生き方」と「心の姿勢」を正し、心と体から出る「黄色信号」が「青信号」に変わったことを確認して、一日をスタートしましょう。

心と体が「青信号」になったら、目的や目標を目指して前進して下さい。

ステキな1日でありますように。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月19日(木)00時26分52秒
編集済
  「地域行政と地域コミュニティに感謝」
《Now watching 746》

今度の日曜日、大久保通りに立ち並ぶ諸教会主催で防災フェスタ(防災訓練)を行います。地域行政と地域コミュニティが全面的に協力して下さって、今年で3回目の開催にこぎ着けられることに感謝しています。地域の方々のためのイベントですが、人的援助に加え、起震車、消防車、防災車、煙体験テント、応急救護訓練、初期消火訓練、アルファ化米、講演などの実際的援助、新宿区内の町会の掲示板にチラシを貼って広告して頂きました。天候が守られ、良き訓練の時となりますように祈ります。お時間許されましたら、ぜひいらして下さい。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月18日(水)23時09分6秒
編集済
  「行列ができる餃子屋」
《Now watching 745》

行列ができる餃子屋さんに来ています。軽く30~40分は待ちましたが、店を出て行くお客さんからは、異口同音「安くておいしい」と話しています。待っている時間からウキウキワクワク。近い将来、教会に行列ができて、異口同音「神様って素晴らしい」と言う時代が来る予感がします。「人々は町を出て、ぞくぞくとイエスのところへ行った。」(ヨハネ4章30節)
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月18日(水)14時48分19秒
編集済
  「居場所」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/4/17(水)【1095】)

人には居場所が必要です。この地上に生を受けたその瞬間から、自動的に家族の一員として迎えられます。

家族の一員でないとしたら、それは孤児であるか、悲劇的な状態です。

私の母方の祖父は、何らかの理由で父親から捨てられました。その悲しみははかり知れません。

四国の高知の土佐から上京して、町を歩いている時に、淀橋教会の小原牧師の路傍伝道を通して教会の伝道集会に導かれました。

その日語られたメッセージが、「神は孤児(みなしご)の父」という内容で、その日イエス様を信じて救われました。

教会生活を送り、献身して神学校に入学し、卒業後に牧師になりました。

神の家族である教会と自分の家族を誰よりも大切にしました。

親がいない子どもは、とても悲しいです。しかし、イエス様と出会い、父なる神の子どもとなり、神の家族に加えられるならば、その悲しみを補って余りある祝福です。

私も、人生のどん底の経験をした時に、イエス様とで会い、クリスチャンになりました。

それまでの悲しみや傷は、すべてが宝に変わりました。

神の子どもとされ、神の家族に加えられたことが、この上ない大きな祝福です。

私が牧師になり、また、路傍伝道をしていて知ったことは、教会の一員になっていないクリスチャンが多いことです。

聖書が教える教会は、ある一部を除いて目に見える地域(各個)教会です。

教会は建物ではなくキリストの体です。そして、クリスチャンは、その体の欠かすことができない一器官です。

教会を離れているということは、一器官として独立しているということです。

器官は、独立した途端、命から離れ、弱くなり、最後は生き絶えてしまいます。

教会を離れたクリスチャンも、体という命から離れると、信仰が弱くなり、霊的命が絶えてしまいます。

インターネット教会、大会、セミナーなどをはしごして、辛うじていのちを保っていても、それは、家族のいない子どものように、異常な姿です。

霊的に無防備であり、無力ですので、サタンの格好の餌食となります。

教会の一員とならない人の理由を聞くと、教会の問題を上げます。

「あなたの家族には問題や弱さがないのでしょうか? そして、家族に問題があるとしたら家族と縁を切るのでしょうか?」と聞きます。

神の家族は、お互いに弱さがあり、問題を持っています。それは、血縁関係の家族と同じです。

弱さを見せ合って、その上で支え合い、共に成長して行くのが家族です。

神の家族に加わらず、教会の一員にならない方が楽なことは確かです。

インターネット教会、大会、セミナーなどには責任がありません。自分を知らせる必要もありません。

教会という神の家族は、お互いに責任を持ち、支え合い、助け合い、共に生きていく関係です。

教会を自分の益のために利用することがあっても、責任を負いたくないという関係は、同棲はするけれど、結婚はしないというカップルに似ています。

あなたと私の居場所が、神の家族です。地域教会です。

その交わりを大切にしていきましょう。

愛は、完璧だから、気が合うから愛するというのではありません。それは好きであり、恋愛です。

立場や身分が違い、価値観が違い、気が合わなくても愛するのが愛です。

それはつらいことであり、嫌なことです。

しかし、教会の一員となることで、愛せない人と出会い、愛を学ぶのです。

そして、クリスチャン同士が愛し合うことが、この世界に対する証であると聖書は教えます。

『もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。』(ヨハネ13:35)

路傍伝道を一緒にする仲間は、欠けがえのない神の家族です。しかし、同時に、超教派の集まりです。

時々、教会に所属していない人が来てくれることがあります。

地域教会に所属し、教会を愛し、教会の交わりを大切にすることを励まします。

様々な大会、集会、セミナーなどを通しての交わりは、責任のない関係です。

自分に取って不都合なことが起こったら、そこには行かなくなり、他の居場所を探します。

そこに愛を学び、成長し、支え合い、助け合う関係があるでしょうか。

クリスチャンは、どこかの地域教会の欠けがえのない一器官として存在するように神様が造られたのです。

神様が下さった居場所を大切にし、愛し、仕えていきたいものです。

聖書には、教会に所属しないクリスチャンについて語っていません。

日本の伝道も世界の宣教も、教会の交わりと愛を通して、一緒に行っていくものです。

初代教会は、お互いに交わり、責任を持ち合い、献身し、持ち物を共有していました。

それが本来の家族の関係なのではないでしょうか。

これからも、神様が下さった居場所に感謝をし、愛し、大切にし、仕えていきたいです。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月18日(水)08時21分19秒
編集済
  「良い態度が人生を豊かにする」

どんな世界でも、立派と言われる人の共通点を調べてみますと、能力や才能以上に、その人の取る態度が成功と関わりがあると思います。

あなたが尊敬する人の特徴をあげるとしたら、おそらく、その人の態度が深く関わっていると気づかれるに違いありません。

明るい、積極的、優しい、社交的、情熱的、力強い、包容力がある等々。

生きていれば、誰だって嫌なことを経験します。その時、どんな態度を取るかで人生は大きく変わります。

問題があるかないかが問題なのではなく、問題に対してどう対処するかが問題です。

クレームを言ってきたお客さんにどのように対応するかで、その店の印象は大きく変ってしまいます。

「本当に申し訳ありませんでした。問題点を指摘してくれてありがとうございます」と誠実な謝罪と共に、笑顔で優しく接するならば、お客さんは、生涯そのお店のお得意さんになるに違いありません。

現に私も経験したことがあります。本当に気分がいいものです。

しかし、「お客さんに問題があったんじゃないですか? 今回だけですよ!」とイヤな顔で対応をしたらどうでしょう?

「こんな店、二度と来るもんか!」と思うことでしょう。

態度が人生を決定します。「否定的な態度」をやめて、「積極的な態度」で生きていきましょう。

その秘訣は、祈りと黙想にあります。神に祈り、聖書を読み、静まって神の声を聴き、心がいやされ、豊かになり、喜びで溢れていたら、自然に積極的な人になります。今朝も、祈りと黙想からはじめましょう。

「夕暮れには涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある」(詩篇30篇5節)

素晴らしい一日でありますように。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月17日(火)15時10分31秒
  「自分の頭で考える」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/4/16(火)【1094】)

「自分の頭で考える」とは、今あることのすべてをそのまま鵜呑みにするのではないということです。

川の流れのように、現状に抗わず、平和的に生きていくことはある意味楽です。

そこに波風が立つことがないからです。

しかし、そのように生きていく時に、自分の心の中に、「納得できない!」という波風が立つのではないでしょうか。

私は「あまのじゃく」のようなところがあります。しかしそれは、何にでも反抗するのではありません。

自分の頭で考えているからです。

100人中、自分を除く99人が「これが正しい!」と言っても、自分が「おかしい!」と感じたら、その感覚を大切にします。

その結果、平和が壊れてしまうことがあります。しかし、私は、これからもそのように生きていきたいと思います。

イエス様は、「平和の君」と呼ばれると聖書に書かれています。

しかしイエス様は、それと矛盾するようなことを言われました。

「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。」(マタイ10:34)

「平和の君」が、「平和をもたらすために来たのではない」と言ったのです。

しかしそれは、世の中の人が考える、波風を立てない、「まあまあまあまあ」と妥協した結果の見せかけの平和を壊すということであり、その平和を壊した上で、神にある本物の平和をつくるという意味なのです。

クラッシュ&ビルドです。

私もそうでありたいと思っています。

私を造られた神に近づき、神と一体になるということは、本当の自分に近づき、本当の自分になることだと思います。

的外れな、虚像の自分が壊され、殻を破って、本当の自分を目指して成長したいです。

聖書は、「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(第二コリント3:18)と語ります。

一歩一歩の歩みを大切にしていきたいです。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月17日(火)08時19分51秒
  「ゆっくりがんばる」

ある精神科医師は、患者に「ゆっくりがんばりましょう」と励ますそうです。

うつ病の人などに「がんばりましょう!」という言葉は禁句で、「がんばりたくてもがんばれない」苦しい気持ちに共感して、心に寄り添うことが大切だと言われます。

がむしゃらに、壊れてしまうような「がんばり」ではなく、ゆっくり、完全燃焼するような「がんばり」は必要です。

試しに、何の責任も与えられないで、三食昼寝付きで、「なんにもしなくていいですよ」と言われて、毎日何もしないで過ごしたら、きっと病んでしまいます。

人は、重要で使命感のある仕事をしている時に、生き生きとするものだからです。

例えば、政治家はいつも元気です。「重要で使命感のある仕事をしている」という実感を持てるからです。選挙も大変だし、有権者から色々なことを言われますが、「政治家を一度やったら辞められない」と言われるのは、それだけ「やりがい」があるからです。また、「将来は、総理大臣になりたい!」と思っている政治家も多いはずです。

重要でやりがいのある仕事をしている人は、単純作業の仕事をしている人より長生きするというデータもあるそうです。

動物園のライオンと野生のライオンはどちらが長生きをすると思いますか? 圧倒的に、野生のライオンの方が長生きだそうです。

楽して、面白おかしく生きる人生もいいかも知れません。しかし、どんな人にも果たすべき責任と重要な使命が与えられています。それを後回しにしないで、誠実にチャレンジして行ったら、人は、必ず生き生きとしてくるものです。

「無理ながんばり」ではなく、「ゆっくりがんばる」ことが大切です。

「無理ながんばり」と「ゆっくりがんばる」ことの違いをコマで例えてみたら、「無理ながんばり」は、グラグラしながら回っているコマの状態で、「ゆっくりがんばっている」状態は、静かなのに全力でコマが回っている状態です。

どうやったら、静かに全力で回るコマのように「全力投球」で生きることができるでしょうか?

秘訣は「祈り」にあります。

聖書は、「絶えず祈りなさい」(第一テサロニケ5:17)と語ります。

すべてのことを祈りながらやってみることです。

誰に祈ったらいいでしょう?

あなたを造られた創造主であり、救い主、助け主、いやし主である、いつも共におられる全知全能の愛の神に祈るのです。

神を見せて下さったお方が、クリスマスに生まれたイエス・キリストです。このお方に祈り、助けを求め、信頼し、頼る時に、人生は一番いい状態に変わります。

コマが、静かに全力で回るように、全力投球で「ゆっくりがんばり」生き生きと充実感を持って生きる人生は、あなたの瞳の輝きを取り戻し、枯れ木に花が咲くように、人生をやり直すことができます。

神に祈り、神と共に歩むあなたと私の人生に、豊かな祝福がありますように祈ります。いつもありがとうございます。今日もステキな一日でありますように。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月16日(月)22時54分52秒
  ~路傍伝道ネットワーク活動報告~
「第三月曜日定例新宿アルタ前伝道」

暑くもなく寒くもなく過ごしやすい気候の夜でした。東京の中心の新宿で思いっきり伝道しました。音楽チーム、ダンスチーム、チラシ配りチームがそれぞれハーモーして、チーム・イエス・キリストの一員になって力を合わせました。「協力」という字の「協」は、「十字架のもとに力を合わせる」と書きますが、まさにそのような形で力を合わせました。おなじみのメンバーに加え、お二人の新メンバーを加えての路傍伝道でした。伝道終了後には、20年以上前に新宿で伝道をした後にみんなで食べに行った旧三平食堂で食事をし、ゆっくり語り合いました。皆さまお疲れ様でした。お祈り下さりありがとうございます。実は、外面的には順調に活動が行われていますが、皆さんの祈りが必要です。沢山の戦いがあります。一週間に2回くらい活動をしています。どうぞ、皆さんのお祈りをよろしくお願いします。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月16日(月)22時07分47秒
  「第三月曜日定例新宿伝道③」
《Now watching 743》

毎回参加して下さる中国の女性が2人いますが、いつも顔を合わせるのに、ゆっくり話したことがなく、少しお話しできて嬉しかったです。伝道終了後には、20年以上前によく伝道後に行った旧三平食堂でマッタリしました。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月16日(月)22時00分59秒
  「第三月曜日定例新宿伝道②」
《Now watching 742》

おなじみの皆さんに加えて、今日は新メンバーが2人参加して下さいました。1人はカトリックのソプラノ歌手の方、1人は広島から。さらにダンサーが2人。熱い熱い伝道でした。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月16日(月)21時52分41秒
  「第三月曜日定例新宿伝道①」
《Now watching 741》

寒くもなく暑くもない過ごしやすく気候の中、大都会新宿駅前で、数えきれないくらいの人に伝道をしました。心が燃やされました。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月16日(月)13時14分37秒
編集済
  「人の隠された動機に勝つ」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/4/16(月)【1093】)

人には、隠された動機が潜んでいることがある。

人の目に良く見えることの中に、不純でいやらしい動機が隠されていることがあるし、人の目に良く映らなくても、愛という動機で行われている場合もある。

使徒信条に名を連ねる「ポンテオ・ピラト」は、自己保身のために、イエス様に何の罪も見出せないと認めたにもかかわらず、正義を貫けなかった。

ユダヤ人たちがローマに訴えて、自分の立場が悪くなることを恐れたからである。

こういう動機は、現代にも受け継がれている。「忖度」も、似た動機からかも知れない。

ユダヤ人たちは、イエス様に対するねたみのゆえに、イスカリオテのユダを銀貨30枚で買収して、偽証をさせた。数々の律法に違反してまでも、イエス様を亡き者にしようと企てた。

「彼らがこういうことを行うのは、父をもわたしをも知らないからです。」(ヨハネ16章3節)

イエス様が十字架で死に、葬られ、よみがえり、天に戻った後には、イエス様に向けられていた敵意は弟子たちに向けられ、聖霊が降臨して教会が誕生した後には、その敵意はクリスチャンに向けられている。

なぜそうなるのか? 神に反逆し、神を憎んでいるサタンと悪霊の仕業である。

イエス様は、「理由なしに私を憎んでいる」と言われた。

イエス様を殺す正当な理由は何もないのである。しかし、その背後には、ねたみという隠された動機が潜んでいた。

ユダヤ人たちは、神の選民であり、真っ先にイエス様を受け入れて、イエス様に従い、イエス様を伝えるべき人たちであった。

しかし、悪魔が、自己保身の思いを利用して働いた。

神が愛しているあなたをねたみ、意地悪し、攻撃する人がいるとしたら、悪魔から来ているものだ。

悪魔は、ねたみ、いじめ、迫害する人の弱さを利用してけしかけ、あなたを攻撃する。

まずは、悪魔が持って来る隠された動機に加担しないように、神に愛され、救われていることを思い出そう。

悪の連鎖を断ち切ろう。

保身やねたみを捨てよう。

次に、悪魔が持って来る隠された動機を持つ人から嫌な目に合ったとしたら、その人は、父なる神を知らないから、神に愛されているあなたの素晴らしさがわからないのだ。

その相手のために祈ろう。

「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5章43節~44節)

その相手を赦し、神にゆたねよ。

「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」(ローマ12章19節)

そして、神の愛を伝えよ。

「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(第一テモテ2章4節)

「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。』」(マルコ16章15節)

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(第二テモテ4章2節)

人の隠された動機の背後にいる悪魔に勝利し、神の愛に生きていこう。

あなたは、神の愛をすでに頂いているのだから。

「君は愛されるため生まれた」(ゴスペルソング)
君は愛されるため生まれた
君の生涯は愛で満ちている
君は愛されるため生まれた
君の生涯は愛で満ちている

永遠の神の愛は
我らの出会いの中で実を結ぶ
君の存在がわたしには
どれほどおおきな喜びでしょう

君は愛されるため生まれた
今もその愛 受けている
君は愛されるため生まれた
今もその愛 受けている
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月16日(月)09時24分23秒
  「試練は、神と私を固定するベルトのよう」

試練とは、人生の中で思い通りにいかない体験のことをいいます。

振り返ってみると、「たくさんの試練を通って来たなー」と懐かしく思います。

もし、神を知らなかったとしたら耐え切れずに、現実逃避しながら、「何で俺ばっかりこんな苦しい目に会わなければならないのか。」と嘆き、つぶやいていただろうと思います。

神を信じた後の試練は、神を「ズボン」にたとえるなら、試練は、ズボンを私の体に固定する「ベルト」の役割をしてくれています。

ゆるゆるのズボンにベルトをしなければ、簡単に脱げてしまいます。

田代まさしさんが覚せい剤を使用して逮捕され、拘置所の中で楽しみがないので、目の前の牢屋に入っている太った男を観察していたそうです。

拘置所では、自殺防止のためにベルトやネクタイは没収されてしまいます。太った男性のはいたズボンはダブダブなので立ち上がるとズボンが下がってしまいます。裁判の判決はまだ出ていないのに、すでに「半ケツ」か出てしまっているのを見て楽しんでいたそうです。

ベルトがないと、ズボンがずり落ちてしまうという実話です。

人生が平穏無事な状態の時には、神を忘れ、神を必要としません。しかし、誰の人生であっても、必ず試練がやってきます。

このような試練に直面した時、神というズボンを体に固定するベルトをしめない人は、ズボンがずり落ちて、自分の醜態をさらすことになります。

家庭や職場、学校や地域での人間関係や、経済的な問題など、些細な試練は日常茶飯事だろうと思います。

どんな種類の試練であっても、試練というベルトで神様と私をしっかりと固定するならば、その試練から守られ、その試練が祝福に変わります。

自分の不甲斐なさのゆえの失敗で自責の念に苛まれていても、「神様、赦して下さい!」とベルトをかけるなら、神様と一体になり、その失敗から学び、成長し、宝に変わります。

予期せぬ試練に会って、「神様がいるのになぜ?」と疑問が湧いても、祈るならば、神とあなたはベルトでかたく結ばれます。

試練は決して悪いものではありませんが、普通は、試練を忌み嫌います。

神抜きで試練に会うならば、プラスになることはありますが、多くの場合はマイナスだからです。しかし、神を信じる人が会う試練は、試練というベルトによって神とかたく結ばれますので、感謝に変わり、祝福になります。

作家の三浦綾子さんは、病を背負いながら夫婦+神の三人四脚で人生を歩み、「病は私に取って宝である。」と語りました。

詩人であり、画家の星野富弘さんは、高校の体育教師として働いていた頃、空中回転の模範演技に失敗して首の骨を折りました。以来、首から下が麻痺して自分で動かすことができませんが、口に筆を加えて、詩と絵をかいて、多くの人を励ましています。星野さんは、「神様がもう一度生まれ変わらせて下さって、健康な体を下さるとしてもお断り致します。今のままで十分に幸せだから。」と語りました。

試練はあなたを不幸にし、神とあなたを引き裂くものではありません。試練に会って初めて自分の弱さを知り、神が必要であるとわかるので、神に信頼し、神を求めるようになります。そうしたら、神はあなたをご自分とベルトで固く結んでくださり、助けて下さいます。神はあなたを愛しています。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月15日(日)20時43分2秒
  「幸せを感じる瞬間」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/4/15(日)【1092】)

毎週日曜日には、2~3回説教を語ります。

神の言葉を語る感覚は一言で表現できません。

とても畏れ多いことです。

全身全霊で語るので、完全燃焼し、力を使い切り、空っぽになります。

語り終わった後の喜びと平安は最高です。

日曜日の礼拝が終わった後は、一番リラックスしているし、一番幸せを感じます。

そんな幸せな感覚に浸っています。

みなさんが一番幸せを感じるのはどんな時ですか?
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月15日(日)07時12分53秒
  「あなたは特別な人」

自分のことが好きになれず、コンプレックスのかたまりのような女の子がいました。体形も、指の曲がり具合も嫌で、自分で自分を傷つけていました。

彼女が、自傷行為から解放された後に、絵のついた詩集を作りました。自分をユニークにデザインして下さったデザイナーに対する感謝の詩です。

バカヤロウ。役立たず。
天然パー。
いろいろなこと言われちまった。
私はそんなにダメ人間?
どうせ私はダメ人間・・・・・・
と、いじけていた私に
「そのまんまのおまえが大好きだよ」って
言ってくれた。
やさしい大好きな天のお父さん。
あなたのその一言で、
私は孤独から
解放されました。

母の日にカードを贈りました。生まれてはじめて、真剣に感謝を込めて「生んでくれてありがとう」・・・・・・。

人はみな、どこかにコンプレックスを持っています。どんなに美しい女性でも、イケメンの男性でも、自分のある部分を好きになれません。しかし、その部分も、唯一無二のユニークさであるはずです。 あなたは特別な人です。

嫌いだった自分が好きになる時、あなたはあなたでなければいけない人生を生きはじめ、輝いて生きるようになるでしょう。

バイブル(聖書)には、「あなたの若い日にあなたの創造者を覚えなさい。」と語ります。この方は、あなたをデザインし、メイクし、生かしている天のお父さんです。

天のお父さんは、ありのままのあなたを愛し、大好きです。地上の親は愛してくれなかったかも知れません。しかし、天のお父さんは違います。あなたを愛しています。私は今日、あなたにそのことを伝えたいです。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ 43:4)

ステキな1日でありますように。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月14日(土)23時15分42秒
編集済
  「第7回賛美集会(路傍伝道ネットワーク)」
《Now watching 740》

バタバタし、仕事がはかどった1日でした。賛美集会に滑り込んで、たくさん歌いました。仲間たちと主を礼拝し、心満たされました。充実したひと時でした。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月14日(土)12時56分27秒
  「習慣が人を造る」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/4/14(土)【1091】)

昨日も今日も、私であることは変わらないのに、心の状態も体の状態もまるで違う。面白いものである。

よっぽど調子が悪くない限り、いつもと同じように生活している。

聖書を読み、祈り、説教の準備をし、説教を語り、伝道をすることなどは、コンディションに大きく影響する。

聖書を読みたい時もあれば、聖書を読みたくない時もある。
祈りたい時もあれば、祈りたくない時もある。祈らざるを得ない時というものもある。
説教の準備は、心や体のコンディションが悪いとまるで進まない。
説教を語ったり、伝道するのには、霊的な力が必要である。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」(第二テモテ4:2)と聖書は語る。

これを書いたパウロにも、みことばを宣べ伝えるのに良い時もあれば、悪い時もあった。

「気が乗る乗らない」というだけではなく、良い状況の時もあれば、今は語らない方が良いと思える時もあったはずである。

それでも、自らが書き、語ったように、パウロは、どんな時にもみことばを宣べ伝えた。

私には誘惑がある。

お金をもらっているかどうか?や責任ある立場にあるかどうか?によって、「今日はやらなくても良いのではないか?」と、心で考えてしまう。

やる、やらない、を自分で決められることに関しては、余計に誘惑に負けそうになることがある。

しかし、それらすべては、神様との関係で行っていることであるから、神を認め、神を信じ、神を恐れるなら、「やる!」と決断することになる。

神様は、「小事に忠実な人は大事にも忠実である。小事に忠実な人に大事をも任せよう。」と言われます。

小事をどう扱うかは、人の目はごまかせる。しかし、神の目はごまかせない。

神様はすべてを知っておられるからである。

私は、毎日の日常の決められたことを(インターネットではあまり公表しないけれど)、神様との関係の中で、「神様、やってますよ」と、神様に語り、神に向かって行っています。

これが、習慣を継続する秘訣です。

そして、習慣を継続するなら、その習慣が人を造り、人生を祝福してくれます。

人は、できれば楽をしたい生き物です。

しなければならない仕事がなければ、ゴロゴロして漫画を読んだり、ドラマを見たり、おいしいものを食べて昼寝をしたり、娯楽に興じたいもの。

人の目だけを考えたらそれで良いでしょう。

しかし、神が私たちと共におられ、この方は私を愛し、私を励まし、私の歩みを喜んで下さいます。

神を認め、この方を大切にし、一緒に生きていきましょう。

良き習慣が継続されて、人生が豊かに祝福されていくに違いありません。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月14日(土)07時04分37秒
  「立ち上がり、再び仕事に取り掛かろう!」

BC.600年頃、イスラエルは国を追われ、バビロンの国に捕囚として連れて行かれました。しかし、聖書に予め預言された通り、70年後に帰還することができました。

民は失望し切り、疲れ果てていました。

神は、イスラエルの民に対して「仕事に取り掛かれ。私があなたがたと共にいるからだ。」(ハガイ2:4)と語られました。

あなたは今、色々な心配や問題に押し潰され、失望し、疲れ切っているかも知れません。神はあなたに向かっても、「仕事に取り掛かれ。私があなたがたと共にいるからだ。」と語られます。

今は、失望し、落ち込み、悲嘆にくれ、現実逃避する時ではなく、立ち上がって、与えられた仕事、使命、働きに取り掛かる時です。

その原動力は、「神があなたと共におられる」事実です。

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

今日も、神様と一緒に、新しい一日を生きていきましょう。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月13日(金)19時26分42秒
編集済
  「Please help me Lord.」
《Now watching 739》

娘が大学に入学し、学校指定のノートパソコンが20万円。高いと思ってソフマップに中古を見に行き、次に、ヨドバシカメラに。店員に聞いてみると、「20万円でこのパソコンだったら安すぎます。そのパソコンを買うのがベストだと思います」と言われました。神様助けて下さり、すべての必要を満たして下さると信じて、ハレルヤ!
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月13日(金)17時43分11秒
  「ドライブ&遅いランチ」
《Now watching 738》

朝起きて身の回りの身支度を終えたら、お昼まで説教準備。仕上がるまで断食。お昼が朝食。お昼に車が戻って来た。午後3時まで一仕事をしてから、急にドライブに行きたくなってお出かけ。1リットルのガソリンで4キロしか走ってくれない今の車に乗り換えてからは、必要以外に車に乗らなくなりました。しかし、18歳で車の免許を取った日、5人乗りのカローラに友人4人乗せて、ほぼ24時間走り回りました。その頃の気持ちを思い出しています。お腹が空いたのでつけ麺とカレーのセットを食べながらマッタリしています。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月13日(金)13時45分23秒
  「My car came back.」
《Now watching 737》

愛車が戻って来ました。18歳の時から、いつも車のある生活をして来ました。3月中旬から、実に1ヶ月間車なしの生活をしました。旅行用ギターのお陰で、車がなくても何とかなりました。むしろ身軽でした。しかし、やっぱり車が戻って来てうれしいです。修理代には20万円弱かかりました。まだ10年10万km乗りたいと思っています。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月13日(金)10時50分7秒
  「神のテストにパスする」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/4/13(金)【1090】)

神は私たちに信仰のテストをされることがあります。深いレベルの信仰を持つためです。

実際、神は、どんな時にも共におられます。しかし、私たちの感覚や感情は、そのように感じられないことがあります。

感覚や感情を土台にした人間関係は、浅いレベルのものであり、いつ壊れるかわからない危うい関係です。

結婚関係が簡単に壊れてしまう原因は、もしかしたら、そこにあるのかも知れません。

ダビデは、神が御顔を隠し、遠くに感じられる時にも神を信じました。

ヨブは、自分のすべてが取り去られても、なお神を信じました。

神を信じる土台が、感覚や感情ではなく、神の約束である聖書の言葉にあったからです。

神は、あなたが苦しい時に、感情をさらけ出して、「苦しいです」「悲しいです」「絶望しています」と祈る祈りに耳を傾けて下さいます。

もし、今、あなたが、神の信仰のテストを受けているとしたら、あなたの感情をすべてさらけ出して神に祈って下さい。

神は、あなたがすべてをさらけ出しても、なおも愛して下さるお方です。

祈りによって、神に自分の苦しみをさらけ出した後には、あなたの感情ではなく、神がどういうお方であるかに目を向けましょう。

神は、どんな時にも良いお方です。神は変わることがありません。神は愛です。

神は、一人子イエス・キリストをあなたのために下さいました。

イエス様は苦しみもだえ、大きな犠牲を払って死なれました。

イエス様ははだかにされて、人相が変わってしまうほどに殴られ、蹴飛ばされ、鞭打たれ、ののしられ、茨で作った冠をかぶされ、つばをかけられ、拷問され、動物以下の扱いをされました。

イエス様は、十字架の横木を丘の上までかつがされましたが、出血のために意識を失って何度も倒れました。その上、十字架に釘ずけにされました。

十字架の上でも、人々からののしられ、あざけられ、馬鹿にされました。

全人類の罪を背負った時には、父なる神様もイエス様から顔をそらせました。

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、イエス様はご自分を救うこともされませんでした。

父なる神は、なぜこのような身の毛もよだつような虐待を赦されたのでしょうか?

あなたが永遠の神の裁きをまぬがれ、永遠の祝福を得るためです。

『神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。』 (第二コリント5章21節)

神の信仰のテストを受ける時、このイエス様を思い、イエス様を信じ、感謝をしましょう。

この方に目を向けて、神のテストにパスし、より深い信仰を持ちましょう。

神への深い信頼が、何があっても動じない人に成長させ、友情、愛情、結婚関係をも深めてくれるに違いありません。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月13日(金)07時28分39秒
  「この道はいつか来た道」

北原白秋 作詞 山田耕筰 作曲の「この道はいつか来た道」という童謡があります。

この道はいつか来た道
ああ そうだよ
あかしやの花が咲いてる

あの丘はいつか見た丘
ああ そうだよ
ほら 白い時計台だよ

この道はいつか来た道
ああ そうだよ
お母さまと馬車で行ったよ

あの雲もいつか見た雲
ああ そうだよ
山査子の枝も垂れてる

私にとっての「この道」は、聖書が語る『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。』(ヨハネの福音書14:6)と言われた道です。「イエス・キリスト」のことです。

作家の三浦綾子さんは、この聖句から「道ありき」という本を書きました。

ご自分が教師をしていた時、敗戦後の子供たちに、国語の教科書の多くの箇所を「墨」で塗り潰させました。「これが正しい!」と教えて来たことを、「これは間違いだ!」と教えなくてはならなくなり、何も文句を言わずに教科書を「墨」で塗り潰している生徒を見ながら、「真理とは何か?」「自分は、これから何を教えたら良いのか?」苦悩し、迷いました。

道は、歩いて目的地まで行くためのものです。しかし、「途中で、間違った道を歩いていた!」と気がついたとしたら、修正して、正しい道を歩めばいいのです。

ある人は、ずーっと歩いて来たので、「今さら違う道を歩みたくない」と思うかも知れません。しかし、人生にはそういうことが起こり得ます。歩き続けることが大切なのではなく、修正してでも正しい道を歩むことが大切です。

聖書は、布教のための宣伝文書ではありません。人々が信じやすく、信じたくなるような技巧は施されていません。しかし、正しい道を教えます。

「この道」は、「いつか来た道」でもあります。

私たち人間は、神によって造られ、神のもとからこの地上に来ました。しかし、先祖であるアダムとエバは、神と共に生きる道を捨てて、悪魔に誘惑され、自分の思う道を歩み始めました。その結果として、人は不幸を経験し、死ぬべき存在となってしまいました。

しかし神は、2018年前のクリスマスにイエス・キリストをこの地上に送られました。そして、十字架と復活を通して、神に立ち戻る道を造って下さいました。

道は、踏みつけられて人を正しい方向に導きます。イエスは、十字架の上で人々に踏みつけられ、殺され、自らが、天国に続く道となられました。

私は、「この道」は初めて来た道であると同時に、「いつか来た道」であると思います。

週末などは何をして過ごされますか?

三浦綾子さんの書物を読んだり、聖書を読んだりしながら、自分の歩んでいる道を確認し、顧みる時を持ってみませんか?

電車が線路の上を走るのは、道が決められてしまっているので不自由でしょうか? そうではありません。線路の上を走ってこそ自由なのです。

私たちも、天国に通じる道を見つけ出し、その道を歩んで行きませんか? そこに本当の自由と、確実な人生があるのです。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月12日(木)11時49分12秒
  「人間の本質を見て、憂い感謝する」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/4/12(木)【1089】)

牧師をしていると、人間の汚い本質に触れる機会がある。

人は、心の中で考えることにはあまり注意を払わない。心の中の考えは、見えないので、人にはばれないので問題はないと考えるもの。

ユダヤ人たちは、罪のないイエス様を有罪にし、殺そうとしていた。その心にあったのは悪巧みである。

それに、もっともらしい正当な理由をつけて、正当化した。

目的を達するためには手段を選ばなかった。数々の律法を違反した。

これは、すべての人間が持っている性質だと思う。

『しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。』 (第二コリント11:3)

悪巧みの主導者は悪魔、サタンである。そして、人は何らかの悪巧みを企て、それを遂げようと生きている。

聖書は語る。『「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」』 (ローマ3:10~12)と。

次に、人は二重性を持っている。

宗教家たちは、悪巧みによってイエス様を殺そうとたくらんでいたが、自分たちの職務には忠実であった。

『彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸にはいらなかった。』 (ヨハネ18:28)

イエス様は、人間の持つ二重性を指摘された。

『目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます。忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。』 (マタイ23:24~25)

使徒信条に名前が出て来るポンテオ・ピラトは、ローマ法の厳格な管理者であったが、賄賂に弱いという二重性を持っていた。

私たちも、二重性を持っているのではないか。

人々の前では、素晴らしく美しい姿で生きているのに、隠れた私生活では、神の前で恥ずかしい考え方を持ち、生き方をしている人がいる。それが、人の現実ではないだろうか。

人は、悪巧みを持ち、二重の生活をしている。罪の性質のゆえに絶望的な存在となったからである。これが現実だ。

もし、この世の中に正しい人がいたり、自分の力で正しい生き方ができるとしたら、イエス様が死ぬ必要はなかった。

イエス様を救い主と信じるなら、イエス様の十字架が私の罪の性質を処刑し、墓に葬り、新しく生まれ変わらせて下さる。

今まで、悪巧みや二重の生活を続けて来たとしても、イエス様によって、人生を、誰でも、いつでも、どこからでも、やり直すことができる。

今日その新しいスタートと切りませんか。

自分自身を含めてですが、人の汚さ、罪深さを見て心底嫌になることがある。

しかし、その人間を完全に救いうるイエス様がおられるので、その絶望は希望に、悲しみや喜びに、落胆は踊りに変わる。

この後も、イエス様と共に歩もう。そうしたら、人生に絶望はない。

『この希望は失望に終わることがありません。』 (ローマ5:5)
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月12日(木)07時20分2秒
  「人生の3つの坂」

人生には3つの坂があるといわれます。1つ目は「上り坂」、2つ目は「下り坂」、3つ目は「まさか」。

どんな人にも、「上り坂」をのぼる時期があります。何をやってもうまくいき、飛ぶ鳥を落とす勢いであがり続けます。特に若い時は、ちやほやされ、期待され、喜ばれます。

しかし、進学、入社、昇進、昇格、結婚、子供が生まれ、家を建て、貯金が増え、持ち物が増えていく時期は、ある時に終わります。

やがて、「上り坂」は「平地」になり、「下り坂」になります。

子供が自立し、退社し、引退し、親が亡くなり、配偶者との死別、そして、今まで持っていたものが一つ一つ奪い去られ、自分が必要とされなくなっていく時期がきます。人生の「下り坂」です。

しかし、人生の坂は、「上り坂」か「下り坂」だけではありません。予測不能な「まさか」があります。

「まさか」は人ごとではありません。誰にでも、ある日、「まさか」がやってきます。

小さな「まさか」なら、日常的にやってきます。

一体、「まさか」にどう対応したらいいのでしょうか?

① 聖書を読み、神に祈り、いつでも神の導きを受ける。
② 神と一体になり、神と共に歩む。
③ 人を赦し、愛し、祝福する。
④ マイナス思考を捨て、プラス思考で生きる。
⑤ どんなことも感謝する。
⑥ 夢と希望を持ち続ける。
⑦ 前進し続ける。
⑧ 間違いに気づいたら、素直に罪を認め、悔い改める。

このように生きる人には、「まさか」は災いではなく祝福になります。

ピンチはチャンスに変えられ、マイナスはプラスに変えられ、栄光から栄光へと成長し、一発大逆転します。

「まさか」をマイナスや呪いと考え忌み嫌わないで下さい。

感謝して、神と共に「まさか」に直面し、進むなら、「禍を転じて福と為す」と言われるように、まさかは大きな祝福なのです。

さらに、「上り坂」も祝福ですが、神と共に歩むなら、「下り坂」も祝福です。

「下り坂」とは、傲慢な生き様に気づかされ、本当の自分の立ち位置に立たせて下さる「坂」なのです。そうしたら楽ですよ。そのくだりきったところで神と出会うことができます。

聖書が語る神は、「私たち人間に上って来い!そうしたら救ってやろう!」と言われるのではなく、2018年前のクリスマスにこの地上にこの地上に人間の姿をとり、私たちのところにまで来て下さったのです。

そして、今あなたの前におられます。心を開き、信じ、このイエス・キリストを心に受け入れるなら、罪が赦され、神の子とされ、永遠の命と天国のパスポートを頂き、救われます。

「下り坂」の突き当たりで、人は神と出会うのです。

「人生の3つの坂」は、どれも祝福です。人生には祝福以外ないのです。

素敵な一日でありますように。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月11日(水)12時01分6秒
  「人間関係が面倒くさいと思う時」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/4/11(水)【1088】)

人間関係において、面倒くさいと思うことがあるのではないでしょうか。

それは、自分に取ってあってほしくないことが起こるからです。

当然、自分と相手の人間は違う存在です。忖度(そんたく)してくれる人ばかりではありません。

人は自己中心な存在だからです。

人間関係が面倒くさいと思うのはお互い様です。

自分と相手の人間が違う存在であることを受け入れ、それを許容し、さらに、その違いを喜んだらどうでしょう。

人生が思う通りにいったとしたら、退屈でつまらないと思います。

問題があるからこそ、それに対処し、切磋琢磨し、成長するのです。

問題があるからこそ、神に頼り、神に立ち返ることができるのです。

神の知恵です。

だから、「面倒くさい」を「面白い」に換えて、感謝しましょう。

そうすると、不思議と事態は好転し、問題の解決に一歩近づきます。

そして、神に祈りましょう。

神が共におられるから大丈夫です。

面倒くさい人間関係は、私たちをより良いところに導いてくれます。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月11日(水)07時45分35秒
  「心の方向転換」

物事がうまく行かない時に、不平不満を言うことが癖になっていないでしょうか。

もし、そのような習慣があるならば、言ったことでプラスになった経験はあるでしょうか。

不平不満を言うもっともな理由はあると思います。しかし、この癖は事態を悪化させるだけです。

それより、ありのままの状態を受け止めて、事態を好転させることに力を入れましょう。

不平不満を言う時は、人生の暗い部分、陰の部分を見ているものです。

陰の180度反対側には光があります。

ひまわりの花は、太陽に向かって向きを変えながら咲きます。私たちも、ひまわりのように明るい方向に心の向きを変えながら生きていきたいものです。

聖書が教える「悔い改め」は、「心の向きを変える」ことです。「闇から光」に、「悪魔から神」に、「病気から健康」に、「問題から祝福」に心の向きを変えましょう。

イエス・キリストは、「悔い改めなさい。天国が近づいたから。」と叫びました。

「天国が手を伸ばせば届く所にあるから、心の向きを変えて受け取りなさい。」ということです。

そこには、罪の赦しがあり、健康があり、祝福があり、永遠のいのちと天国があります。手を伸ばせばそこにあり、それはあなたのものです。

イエス・キリストは、十字架であなたが必要としている良いものを与えて下さいました。もう不平不満を言う必要はありません。

不平不満を言う癖を終わりにし、心の向きを変えて、感謝と喜びを口にしましょう。

あなたの気持ちは幸せになり、事態は好転し、最高の人生がはじまります。

素晴らしい一日でありますように。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月10日(火)10時04分32秒
  「相手の立場から見る客観」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/4/10(火)【1087】)

今日は、所属教団の友愛グループ教会連合の教区会を私のところの教会で行います。

それぞれの教会の会場をローテーションして開催していますので、久しぶりに私のところでやることになります。

お互いの宣教地・牧会地を見ることで、お互いをもっと深く知り合うことができます。

そして、自分の教会を客観視できます。

牧師になってから20年弱が経ちましたが、日曜日に他の教会に行って、その教会の牧師の説教を聞くことはあまりありません。また、その教会の日曜日の礼拝の雰囲気を知ることもできません。

教会を訪問すると、その教会で行われる集会の雰囲気、信徒の方々や牧師の家族、人となりを何となく知ることができます。

そうすることで、自分の教会を客観視する機会になります。

2年半前に日本武道館で行われたフランクリン・グラハム大会の前の準備期間に、600を超える教会を実際に訪問しました。

いろいろな教会がありますが、どの教会も違った素晴らしさがあると感じました。

人数や建物、敷地の広さを日本最大などということはできても、そなような表現はあまり意味がないのではないかと感じるくらい、それぞれに違った豊かさ、賜物、特色、祝福があると感じました。

印象に残っているは、千葉県にある日本で一番小さな教会と思える教会を訪ねた時、その応対してくれた牧師夫人と交わりをした後の感想は、一番小さいけれど、一番心が広く豊かな教会だと感じました。

教会の規模や財政などを比較して、優劣をつけることをやめたきっかけになりました。

知識として、頭ではわかっていても、どこかで比較という呪縛に囚われているものだからです。

私たちお互いも同じです。

能力、顔かたち、給料の額、学歴、職歴など、比較するポイントを探すことはできますし、その結果を謙遜に受け止めて、それをエネルギーに変えていけるなら素晴らしいです。

世の中は、数の原理、競争原理によって動いています。

数、大きさ、額は歴然とした事実です。

しかし、その構造が人の心を病ませたり、苦しめたりしているのです。

勝ち組の人も、いつ負け組になるかと恐れています。

勝ち組と負け組の格差があり、負け組と自覚したら、人生を投げ出してしまう人もいます。

主観的視点で物事を見ると、比較から解放されるのは至難の技です。

しかし、客観的視点で見るならそれが変わってきます。

路傍伝道の写真を見て、自分が見ているのと違う視点で撮られていたため、一瞬、「ここはどこだろう?」と考え込んでしまいました。

そして、写真を見て、自分が見る視点と、相手がこちらを見る視点の違いを感じながら、物事を客観視することの大切さを感じました。

自撮りしたり、カメラマンに写真を撮ってもらった写真を見たり、鏡に写る自分を見るということではありません。

心を開いて、自分から飛び出して、相手の懐に飛び込み、相手の立場に立ち、相手の視点で物事を見ることです。

仮に、こちらが相手をうらやましいと思っているとします。しかし、相手もこちらをうらやましいと思っていたりするものです。これが客観視です。

主観的に物事を見ると、「私は能力がない小さな人間だ。相手が私をうらやましく感じているはずがない」と考えたり、反対に、「私は素晴らしい人間だ。相手は私をうらやましく思っているに違いない」と考えます。

しかし、相手は全く違ったことを考えているかも知れません。

劣等感を持った人に対して、尊敬し、「あの人のようになりたい」と思っているかも知れません。

優越感を持っている人に対して、「勘違いしやがって、かわいそうな痛い奴だな。こういう人にだけはなりたくない」と思われているかも知れません。

自分の殻を破り、心を開き、自分から飛び出して相手の懐に飛び込み、相手の立場に立ち、相手の視点で自分を客観視するならば、比較から解放され、トータルで物事を見足り考えたりするようになり、心が豊かになります。

何より、神の視点で物事を見ることが大切です。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43章4節)

神の目に映るあなたは高価で尊く、愛されているのです。

人と比較して優劣をつける必要はありません。ありのままで価値があり、尊く、愛されているのです。

比較から解放されて、昨日の自分より一歩でも前進し、成長していけたら幸いです。

その到着先は、神が創造された本当の自分です。

「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ2章10節)

しかし、先祖アダムとエバの神への反逆という罪の結果、人の中に死が入り壊れてしまいました。

イエス様は、2018年前のクリスマスにこの地に来られ、私たちを救い、いやすために十字架で死んで、よみがえって下さいました。

「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」(ヨハネ11章25節~26節)

イエス様の十字架と復活が私のためであったと信じるなら、救われ、私の壊れた部分の修復がはじまります。

それが完成するのは天国に行った時です。

人は、自分の立場から見るだけではなく、相手の立場に立って物事を見、考えることによって本当のことが見えるようになります。

特に大切なのは、あなたを造られた神の視点で見る客観視です。

心豊かに生きていけますように。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月10日(火)06時52分49秒
  「本当の自分になる」

中年の仕立て屋の一郎さんは、何十年も変わらない日課に従っています。毎日、擦り切れた同じ洋服を着て、自分の店に出かけます。途中で教会によって、神に祈りを捧げる。一日一生懸命に働いた後、家に帰って、稼いだお金を妻に渡す。しかし、一郎さんは、毎日100円の宝くじを1枚買っていました。

ある日、一郎さんは当たりくじを引きました。1億円の小切手を持って帰宅し、いつものように小切手を妻に渡しました。翌朝、いつも通りに擦り切れた洋服を着て、仕事に行こうとすると、妻が呼び止めました。「あなた、あなたはこれまでずっと苦労して働いてきたわ。今やっと、楽しく暮らせるチャンスが来たのよ。新しいスーツを買い、マッサージを受け、おいしいものを食べたりして、もっと自分を大切にして下さい!」

いつも妻の言葉に従う一郎さんは、その提案を素直に実行しました。何万円もするスーツを仕立て、マッサージを受け、散髪をし、おいしいものを食べて、生まれてはじめてあらゆる贅沢を体験し、見違えるようになりました。これが、あの一郎さんだと誰がわかるでしょう?

肩をいからせ、胸を張り、大股で大通りを渡っていると、猛スピードで車が走って来て、気の毒に一郎さんを跳ね飛ばしました。

一郎さんは、正しい生き方をして、大通りを通って天国に到着しました。神様に聞きました。「私は、生涯まじめに働きました。毎日コツコツと日課を行って来ました。しかし、最後に違った生き方をした時に、あなたは全てを取り上げました。なぜですか?」

神様はしばらく間を置いてから、言った。「一郎、正直言うと、あなたがあまりにも変わってしまって、あなただと気づかなかったんだよ。」

これは、「贅沢がいけない」という話ではなく、「その人らしい生き方がある」ということを教えてくれています。

一郎さんの生き方から学ぶことは、「自分じゃない自分になろうとする」のではなく、「本当のありのままの自分になって」生きることです。

人や時代が考える理想の姿を目指して、「こうあるべき!」と自分を変えようとするのではなく。むしろ、「本当の自分」に向かって変わって行き、その自分を慈しみ、自分を磨き、自分を最高に生きることです。

神様が考える理想は、本当のあなたになることです。神と出会い、本当のあなたの姿を知り、殻を破って、本当のあなたに向かって今日も前進して参りましょう。

「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ2:10)
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月 9日(月)16時13分49秒
  「陰口という欠席裁判はやめよう」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/4/9(月)【1086】)

陰口は欠席裁判です。弁護士もいない欠席裁判は、基本的に避けるべきだと思います。

ほめることなら良いとも思いますが、ほめたことから批判的意見が続出した実例があります。

A君は、「B君は素晴らしい人です」とC君とD君に言いました。

そうすると、そこにいたC君とD君は気分を悪くして、「Bの奴はこれこれこういうことをした。」「あいつは信用できない」と、欠席裁判がはじまりました。

私は、目の前にいるお互いの徳が高められ、励まされ、慰められる話題に集中したら良いのではないかと思います。

ある時、私の友人を批判する話題で盛り上がっていました。

私は、「その本人がいない時にはやめようよ」と話すと、「面白くない奴!」という顔をされました。

後日、批判されている友人の耳に、どこからとなくその日のことが伝わりました。

そして、私が「本人がいない時にはそのような話はやめようよ」と言ったことも伝わりました。

「かんちゃんは僕をかばってくれたんだね」と感謝されました。

もしそこで、黙っているか、笑っているか、同調していたとしたら、私もその批判に加担したことになったのです。

私の株が上がったかどうかというようなこと以前に、人を批判するすると、言っている人同士その時は楽しんでいますが、信頼は崩れているのです。

「彼は、人の陰口や悪口を言っているが、もしかしたら、僕がいない時に僕の悪口を言うかも知れない」と。

そんなところから、人間関係は壊れていってしまうのです。

「陰口をたたく者のことばはおいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく。」(箴言18章8節)

陰口は、おいしい食べ物のようですが、そこには毒が含まれています。

後で苦い結果をもたらします。

陰口という毒をまかない、食べない、避ける。

神様に祈りながら知恵を頂きたいですね。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月 9日(月)08時36分25秒
  「批判の心得とトレジャー・ハンティング」

学生時代、親、教師、社会、政治などに対して痛烈に批判しました。神学校に通うようになると、クリスチャンや牧師に対して批判したことを思い出します。

批判をしている時の私は・・・
①自分が知るべきこともまだ何も知らないということを知りませんでした。

②自分が正しいと信じて疑っていませんでした。

③自分がいっぱしの者であるかのように思い上がっていました。

一人の大学生が、教授から批判することに対しての教訓を得ました。

本を読んで、著者に対して自信満々で批判的な意見を述べました。

それを聞いた教授は、「ちょっと読み込みが甘いというか、もう少し著者の意見に耳を傾けましょう」と言いました。

「え、なんで!?・・・」と思ったそうです。

続けて教授は、「君の指摘している点はある意味で正しいかもしれません。けど、著者の本当に言いたいこと、何を言いたいのかということを、本当に理解しようとしてから、そういう点を指摘してますか?」

「その人が本当に言いたいことを理解するつもりで意見を聞き、その言いたいことを結論づける上で根拠や理由に不十分な部分があるなら、それは指摘して『あげる』必要があるんです」

ハッとしたそうです。

自分の意見は、重箱の隅をつついて、ただ「間違ってやんのー。 やーいやーい、減点~!」と言っている子どもと同じ。

著者が言いたいことに耳を傾けることなく、ただ、わけも分からず、足をひっぱろうとしていただけだったと気づきました。

まず批評ありきで、著者の意見の甘いと思ったところを指摘してやろうと身構えていたら、相手が本当に言いたいことを見過ごしてしまいます。

私は、数年前から、毎日一つ以上の文章をネット上に投稿し続けています。

これを毎日やっていると、時間が限られていますので、時には、文章の校生もできないこともあり、不十分な文章のまま載せてしまうこともあります。

勇気をもって間違いを指摘してくれる人がいたらありがたいです。お礼を言って、すぐに訂正します。

ただ、批判してくれる人の中には、文章の本筋ではなく、枝葉の部分の話に過剰反応して、のべつ幕なく攻撃的、かつ感情的に持論を展開する人もいます。

時間があれば、じっくり話し合いたいのですが、お互いにそこまでの時間はなかなか取れません。そして、私が本当に言いたいことに耳を傾け、理解した上で批判する人でない場合は、私が何を話そうと、聞く耳を持ってくれないことも多く、堂々巡りで終わってしまうものです。

批判をしてくれるということは、真剣に文章を読んでくれていることです。あるいは、私に関心を持ってくれているからだと思うのでうれしいです。

しかし、パッと目に付く部分をさっと批判してしまう前に、まず、筆者である私が、一体何を言おうとしているのかに心を向け、それを受け止めた上で、「ここが不十分だと思いますよ」と指摘してくれるとしたらとてもありがたいです。

もし、本筋ではない枝葉の内容のことで、「あーでもない、こーでもない!」と、落ち度を批判したくなったとしたら・・・、ちょっと立ち止まって、もう一度読んでみて下さい。

次に、聖書を安易に批判する人がいます。

聖書と向き合い、聖書が何を語ろうとしているのかに耳を傾けて、理解しようとした結果、批判するのは構いませんし、否定するというなら仕方ありません。しかし、最初から、自分なりの聖書観という色メガネをかけて、聖書の矛盾点を探すだけの批判なら、いささか早とちりであり、早合点の勇み足ではないかと思います。

聖書は、「・・・もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」(使徒の働き17章27節~28節)と語ります。

また、「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたし(イエス・キリスト)について証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたし(イエス・キリスト)のもとに来ようとはしません。」(ヨハネの福音書5章39節~40節)と書かれています。

批判する心が文明や文化を発達させて来ました。批判をし、より良くしていこうという心は大切です。

しかし、批判のための批判ならば、理解し合うことなく、争いを生み出すだけです。そして、そこに隠された宝に気づかないで、見過ごしてしまうこともあります。

みなさんは、じっくり文章を読んで下さる方々だと思います。ぜひ、聖書に向き合い、じっくり読んでみて下さい。そこに、想像もできないほど素晴らしい宝が隠されていると思います。聖書を読むことは、世界最高のトレジャー・ハンティングです。

「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイの福音書13章44節~46節)

今日も素敵な一日でありますように。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月 8日(日)14時39分35秒
  「首都圏イースターのつどい」
《Now watching 736》

恩師が説教します。大会のために祈る人を募集しています。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月 8日(日)13時20分2秒
編集済
  「今を感謝」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/4/8(日)【1085】)

小学1年生の時に、誕生日のお祝いにゲームウォッチ を買ってもらいました。

うれしくて1日中ゲームをして遊んだことを思い出します。

小学生の息子にゲームウォッチ の話をしたら、Android携帯に向かって、「ゲームウォッチ 」と話し、あっという間にインストールしてゲームウォッチ をはじめました。

いい時代だなと思います。

中学生になり、ファミリーコンピュータを買ってもらった時には、徹夜してチャンピオンシップロードランナーやドラゴンクエストをクリアしたことを思いまします。

今の時代は、スマートフォンを持っているだけで新たにゲーム機を買う必要がないくらい充実しています。

懐かしいです。今はいい時代です。感謝です。

過去を懐かしがったり、未来をうらやむのではなく、いつも今を感謝し、与えられた今この時を生きていきたいものです。

この後もステキな時間をお過ごし下さい。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月 8日(日)06時52分34秒
  「人を助けることで助けられる」

ある日、「天国」と「地獄」から招待状が届いた。それぞれの場所を旅して気づいたことは、どちらも同じ光景でした。

しかし、天国の住人は豊かに太っているのに、地獄の住人は醜くやせていました。

天国の食卓にも、地獄の食卓にも、それぞれ1mのフォークとナイフが置かれています。

地獄の人たちは、1mのフォークとナイフを握って、一生懸命食べようとしますが、どう工夫しても食べることができませんでした。

天国の人は、お互いに相手に食べさせてあげているので、助け合って、おいしく食事をしていました。

天国の住人は互いに助け合って生きていますが、地獄の住人は自分のことだけを考えて生きています。

みなさん、天国と地獄は、死んだ後にいく場所ですが、この世の中でも天国と地獄を味わうことができます。

互いに愛し合い、助け合う関係のある場所は、天国です。しかし、利己的で、自己中心で、互いにねたみ合い、無関心な関係しかもてないなら、地獄です。

キリストは、「神の国(天国)は 実にあなたがたのただ中にある(ルカ17:21)」と言われました。

今日、私たちのただ中に天国を作りましょう。大金持ちにならなくても、権力を握らなくても、高い地位を得なくても、天国は、あなたのちょっとした心がけで作られるのです。

素敵な一日でありますように。天国を味わえますように。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月 7日(土)22時47分59秒
  「路傍伝道ネットワーク本日の活動③」
《Now watching 732》

山手線祈祷会、大崎駅路傍伝道終了後には、つけ麺大王で食事をして、マッタリ過ごしました。リーズナブルな価格で、お腹いっぱいになりました。来月の大崎路傍伝道後の食事は決まりです。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月 7日(土)22時35分40秒
  「大会決起祈祷会②」
《Now watching 732》

今日は、山手線外回り一周祈祷会を行い、終了後には大崎駅路傍伝道をしました。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月 7日(土)12時25分18秒
  「目の前にある仕事を一つひとつやっていく」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/4/7(土)【1084】)

人から相談を受けると、その人と一緒に解決しようと考えます。

そこで出た解決策が自分自身の問題の解決策になることが往々にしてあります。

人を助けているつもりが、結果的に自分が助けられているのです。

一人の相談者は、先々考え過ぎて、「あれもこれもしなければいけない!」と考えて、圧倒され、重荷になり、立ち往生して、何もやらず終いになり、その自分に対して自己嫌悪に陥り、悪循環から抜け出せなくて苦しんでいたのです。

私は、「何も考えないで、目の前にある仕事を淡々と、かつ、真心込めてやってみて下さい」とお話ししました。

私のアドバイスを実践した結果、自信を回復して、好循環になったそうです。

私も、あの仕事この仕事が山積みになって、圧倒されて身動きができなくなることがあります。

そんな時、紙やノートにやるべき仕事のすべてを書き出します。

そうすると、整理されるので、手近で優先順位の高い仕事から行なっていきやすくなり、目の前にある仕事から一つひとつ丁寧にやっていきます。

人の相談に乗る時には、客観視できるので答えを出しやすいですが、自分が問題の渦中にいる時には、祈って解決することもありますが、客観視するために友人の牧師や、先輩の牧師をはじめ、様々な専門家、相談しやすい人にアドバイスを求めます。

その相手も、私の相談に乗ることで、きっと自身の解決の問題解決の糸口を見つけているのではないかと思います。

そのようにして、人は助け合いながら生きていくのです。

聖書は、「互いに~し合いなさい」と語ります。

互いに助け合い、支え合い、励まし合っていけたら幸いですね。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月 7日(土)06時42分14秒
  「心にゆとりをもつ秘訣」

心にゆとりがある人にはいくつかの特徴があります。

①ものごとの優先順位を正確に付け、それに従って生きている

朝起きたら、まず神に祈り、相談しながら、「自分がやりたいこと」を優先順位の下位に設定し、「神の目から見て最重要なこと」を優先順位の上位に設定する。

次に、その優先順位に従って1日を生きます。このように生きるなら、締切に追われてアップアップするようなことは激減し、心にゆとりが生まれます。

②人を赦し、健全な自尊心をもっている

自分を傷つけ、拒絶し、不利益を与えた人を赦さないと心にゆとりがなくなります。神様の前に自分がいかに大きな罪人であることを知り、その罪が無条件で一方的なキリストの愛によって赦されていることを受け入れるときに、心の傷は自然にいやされ、人に対して寛大な気持ちになり、赦すことができるようになります。そうしたら、心は平安と喜びで満ち溢れ、ゆとりがわいてきます。

同時に、健全な自尊心をもつことが大切です。自尊心とは、自己愛です。それはナルシズムと対極にあり、うぬぼれたり、自己陶酔することではなく、神様が私を愛して下さっているのと同じように自分を大切にし、神様の瞳に映るあなたと同じように自分自身を見ることです。傲慢、尊大、人を見下す心。あるいは、劣等感、自己卑下、自己憐憫は逃げていきます。心のゆとりと自尊心は切っても切り離なすことはできません。

③神と一つになり、自立している

私たち人間は神によって造られた存在です。本来、神と一つになって生きる存在として造られました。しかし、先祖アダムとエバは、神を捨て、神に背を向け、自分を神として生きるという大罪を犯しました。神から離れた人間は、根が切られた切花のように、しばらくすると枯れてしまいます。だから、人間には寿命があるのです。罪の結果、人は死ぬべき存在となってしまいました。しかし、キリストの十字架を通して、罪が赦され、神の子とされ、神と再び一つになるならば、永遠の命が与えられますので、その神の命によって心にゆとりが与えられます。

神と一つになるならば、無限の力が与えられますので、人と助け合うことはあっても、人に依存する必要がなく、自分の幸福感を、人や状況によって左右されることがなくなり、どんな状況の中にあっても幸せであり、すべてのことを感謝し、人に寛大に与え、愛し、豊かな人となり、ゆとりたっぷりの心で最高の人生を生きることができます。

素晴らしい一日でありますように。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月 6日(金)20時48分45秒
  「大会決起祈祷会」
《Now watching 731》

いろいろな大会で奉仕をしていますが、この大会では祈祷委員です。音楽委員、制作委員など、どのポジションでもやりがいがありますが、祈祷委員をすることで私が誰よりも祝福されます。水を得た魚のようです。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月 6日(金)16時21分35秒
  「大会委員会に滑り込み」
《Now watching 730》

今日は、1日説教準備をしました。牧師になった頃には、1人書斎に閉じこもって準備をしたものですが、神様と2人きりで準備をしたいと思いますが、始業式を終えた息子が私にべったりくっついて離れないので、そのような状況の中での説教準備はチャレンジングでした。軽く1日初の食事をして、大会の委員会に滑り込みました。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月 6日(金)14時59分35秒
  「超自然的なわざ」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/4/6(金)【1083】)

一日一シャが、超自然的なわざであると言ったら、いささか言い過ぎですが、私が書く内容に関しては、超自然的な内容であると思います。

神が私に与えて下さった救いは、信仰により、恵みによって与えられたものです。

『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。』 (エペソ2:8~9)

この救いには、3つの要素、3つの次元があります。

「義認」「聖化」「栄化」です。

義認とは、信じるだけで義と認められます。しかし、これは救いのスタートです。このことを知らないと、クリスチャンになったのに、変わっていない自分を見て悩み、それを見た人が「クリスチャンなのに・・・」と躓くことがなくなります。

信じて義と認められる「義認」の段階で、劇的に変化する人がいるのは確かです。私もそうでした。

しかし、しばらくすると元の姿に戻ってしまったり、もっと悪く見える状態になることすらあります。

漢方薬を飲み始めた時に、「好転反応」が起こることがあります。今まで以上にかゆくなったり、今まで以上に痛くなるのです。

そうすると、「この薬は私の体に合わない!」と言ってすぐにやめてしまう人がいますが、これは、治るための第一歩なのです。

クリスチャンになり、神の光の中に生きる時に、罪に敏感になり、今まで以上に悪い人間に見えたり、反動が起こって以前の生活に戻りたくなることがあります。そして、戻ってしまい、さらに悪くなってしまうこともあり得ます。

しかし、義認でも救いなのです。義認はスタートで、その日からはじまるのが聖化です。

イエス様の姿に変えられることを栄化と言いますが、それは救いの完成であり、救いのゴールです。

そこに至るまで、少しずつ変えられていくプロセスを聖化と呼びます。

そして、日々、神の霊の力によって変えられ、やがて、イエス様と同じ性質に変えられていきます。

一気に変えられた素晴らしいですが、30年かかって築いた生き方をそう簡単に変えられるものではありません。むしろ、人が変わるというのは不可能に近いことです。

しかし、神の救いは、その変わらない人間を少しずつ変えて下さるのです。素晴らしいです。

神の超自然的な働きです。

その救いのプロセスを日ごとに綴っています。

一日一シャがスタートして3年が経過しましたが、これからも、神の恵みによる救い、超自然的なわざを書き続けていけることは、大きな喜びです。

今日は、説教準備をしています。私が一番神の恵みと力を感じるのが、聖書を読み、説教の準備をしている時です。幸せです。

『私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。』 (詩篇27:4)

『あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。』 (詩篇63:3)
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月 6日(金)07時26分45秒
  「楽観的に生きよう」

コップに入った半分の水を見て、楽観的な人は、「まだ半分水が入っているぞ!」と感謝をし、悲観的な人は、「もう半分しか水がなくなってしまった!?」と嘆きます。

同じものを見ているのに、両者はどうしてここまで違ってしまうのでしょう。

楽観的な人は、今あるものに目をとめて感謝をしています。悲観的な人は、今ないものに目をとめてないものねだりをするからです。

このことは、人生のあらゆることに当てはまります。

楽観的な人は、今、衣食住が満たされ、健康で、毎日おいしく食事ができること、愛する家族がいること、仕事があること、友だちがいること、少額であっても貯金があることなど、今、すでにあるものに感謝をしますので、どんな時にも幸せです。

悲観的な人は、今がどんなに恵まれていたとしても、「やがてそれがなくなってしまうのではないか!?」と心配をし、クヨクヨします。人と比較をして、自分の劣っている部分に目を向けて、ないものねだりをして、妬み、腹を立て、不平不満をいいます。一時的に幸せになることはあっても、不安の影がいつもつきまとい、どんな時にも不幸です。

今あるものに目を向けて感謝をし、自分に与えられているもので満足をし、人と自分を比較して劣等感を感じることをやめ、良いことが起こることを期待し、最善の努力をし続けるあなたこそ楽観的な人です。

「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。」(第一テモテ6章6節~8節)

「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たちよ。私は、すでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。」(ピリピ3章12節~16節)

素晴らしい一日を悲観的に生きて台無しにしないで、楽観的に生きて最高の一日にしていきましょう。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月 5日(木)21時59分56秒
  「新メンバー歓迎新宿路傍伝道③」
《Now watching 728》

食事時間も楽しく笑いが絶えない時間でした。後半はマッタリしまって動きたくないリラックスモードになりました。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月 5日(木)21時48分28秒
  「新メンバー歓迎新宿路傍伝道②」
《Now watching 727》

久しぶりに大笑いした路傍伝道でした。ステキで愉快な仲間たちに感謝致します。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月 5日(木)21時24分41秒
  「新メンバー歓迎新宿路傍伝道①」
《Now watching 726》

今日は、「新メンバー歓迎路傍伝道」と銘打って路傍伝道に、11名の新メンバーが参加してくれました。パワフルな2時間でした。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月 5日(木)14時00分15秒
  「一日一シャ3周年」
(一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2018/4/5(木)【1082】)

今日で、「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉」をはじめて丸3年になりました。

振り返ってみると、書きたくて仕方のないことが泉のように湧き上がって書いた文章もありますが、搾り出すかのようにやっとの思いで文章を仕上げたことが何度もありました。

大切にしたきたのは、自分らしさです。

「こうあるべき!」とか、「こうあったらいいのに!」という外部からの要求に屈することなく、自然体で、かつ、正直な気持ちを盛り込むことを信条としてきました。

3年間を振り返って、一番向き合わされた問題は「赦し」であったのではないかと感じます。

赦せない気持ちと向き合いながら、もがき、苦しみ、傷み、涙しながら生きて来ました。

しかし、「人や状況のせいで傷ついた」ともいえますが、もっと根本的原因は、私自身が傷つくように受け止めたということです。

聖書は、「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(マタイ6章14節~15節)と語ります。

聖書は、赦すことを聖書は教えます。理由は、赦す時に、本当の意味で神の赦しを受け取ることができるからです。

人を憎み、赦さず、状況に対して不平不満をいっているいるのに、神の赦しを受けるというのは矛盾です。

神の側では赦しを与えておられるのに、それを自ら拒否してしまうことになります。

すべてのことを感謝するということも、赦しなのです。

これからの「一日一シャ」も、毎日生活をしながら苦悶し、葛藤しながら、生々しい心の状態を含めて、思いを書き綴っていきたいと思います。

どうぞ、引き続きよろしくお願いします。毎日ありがとうございます。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月 5日(木)07時38分45秒
  「真の幸せを得る秘訣」

中国のことわざには、
一日幸せになりたければ酒を飲みなさい。
三日幸せになりたければ結婚しなさい。
七日幸せになりたければ豚を殺して食べなさい。
一生幸せになりたければ釣りをおぼえなさい。
とあります。

「酒を飲む」ことで一日幸せでいられます。それ以上でもそれ以下でもありません。

2つ目に、「結婚」したら三日間は幸せでいられます。

結婚の幸せが三日とはちょっと短い気がしますが、「美人は三日で飽き」「ブスは三日で慣れる」と言われます。

恋は三日で終わり、四日目からは愛が求められます。

3つ目に、「ブタ」を殺したら、一匹の豚肉で一週間はお腹いっぱい食べられるので、一週間は幸せでいられます。

しかし、これらの3つの幸せは、受動的なもので、飲食や人によって幸せにしてもらう人生です。

そのような幸せは、永続しないことを中国のことわざは教えてくれます。

最後に、「釣りを覚えたら一生幸せでいられる」と締め括られます。

釣りを覚えたら、お腹が空くたびに釣りができるので、人に頼る必要がありません。

能動的に、自分の幸せのために自分で働けます。

「自分一人で生きて行こうとする姿勢」
「自分の幸福感を自分で管理する心構え」
の2つです。

幸せでない人を観察してみたら、誰かに依存して生きていたり、自分の幸福を人や状況頼みしている人ではないでしょうか。

あなたは、自分一人で生きて行こうとする姿勢を持っていますか。

自分の幸福感を自分で管理する心構えを持っていますか。

人からどんなにけなされようが、人からみじめでかわいそうな人と思われても、自分が、「けなされた!」「私はみじめでかわいそうな人だ!」と認めない限り、そうではないのです。

しかし、自分一人の力には限りがあります。

私は、中国のことわざの作者に断りを入れていませんが、最後にこの言葉を付け加えたいと思います。

「永遠に幸せになりたければ神を信じなさい!」

神に頼るからこそ、自立し、自分一人で生きて行く力が与えられるのです。

また、自分の幸福感は、神の助けがあるからこそ自分で管理できるのです。

もしあなたが、神を信じ、神を頼るなら、永遠に幸せでいられます。

そんな人生を共に歩んでいきませんか。

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)

「あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある」(詩篇16:11)
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2018年 4月 4日(水)23時52分24秒
編集済
  「働かざる者は食うべからずの祝福」
《Now watching 725》

「働かざる者は食うべからず」と聖書は語ります。

これは、働きたくても働けない人のことではありません。働けるのに、働こうとしない人のことです。

今日、キリスト教の洗礼を受けているけれど、教会を離れ、うつ気味で生活保護を受けている男性と話をしました。

結婚して2年ですが、DVを行なったことが原因で奥さんに逃げられ、数日前に離婚しました。

立派な体があり、単純な仕事であれば十分に働けるのに、2年間仕事をしないで、奥さんと2人で引きこもっていました。

仕事をしないことで仕事を通して得られる充実感、自信、経済的祝福などを逃していました。

その満たされない心の代償を、奥さんを通して満たそうとした結果、夫婦関係が破綻してしまいました。

仕事が人に与える祝福を改めて考えさせられました。

今日彼は、新しい人生の第一歩を歩み出す決断をしました。とてもうれしく思います。

何か大きなことをしようとしなくても、まずは第一歩を踏み出すことです。

仕事を始める。そして、その仕事を仕事を続ける。

人と約束したことを守る。

目の前にある一つひとつを忠実に行い続けるなら、必ず道は開かれていくと信じます。
 

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