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(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月14日(木)06時51分54秒
  「言葉には力がある」

「ありがとう」。これは不思議な魅力に満ちた言葉です。どんなに疲れていても、その一言を聞いただけで元気になることができます。

先日、講演を終えた後で、聴衆の何人かが、「とっても良かったです。ありがとうございました。」という言葉をかけてくれました。その言葉を聞いただけで、疲れは吹き飛び、元気になりました。力ある言葉ですね。

「ありがとう」は、通常、何かをして頂いて感謝を表す時に使いますが、しかし、そういう時だけではなく、とてもそう思えない時にも使うことができます。

漢字で「有難う」と書きます。「有る」ことが「難しい」ことに使えます。

めったにないような好意を受けた時、かゆい所に手が届くような心配り、親切などは「有る」ことが「難しい」です。

しかし、めったにないような最悪な出来事、とてつもない惨事、珍事。侮辱されたり、ひどい目に合ったり、腹が立つような対応を受けた時。これも「有る」ことが「難しい」、有り得ない、想定外です。

「ありがとう」は、良くても悪くて、「有る」ことが「難しい」ことに対して使っていい言葉です。

しかし、後者の悪い方の「ありがとう」は、その相手や状況に対してまともに口にしたら、皮肉に聞こえますし、それを見た人から、「この人、どうかしちゃったんじゃないか?」と心配になります。この「ありがとう」は、祈りによって、「有難い」ことを与えて下さった神に対して語って下さい。

「ツキを呼ぶ魔法の言葉」という小冊子を読んだことがあります。「五日市剛氏」の講演をまとめたものです。五日市さんが大学院生の頃、自分の研究に行き詰まり、人間関係に悩み、現実逃避のために一人でイスラエルを旅行しました。しかし、旅先でもトラブルが続き、飛行機が遅れるし、財布を失くしてしまうし、詐欺に会って所持金のほとんどを失ってしまいました。さらに、大寒波が襲来し、泊まる宿も見つかず、一人つぶやきました。「なぜ俺ばっかりこんな目に遭うんだ!」「俺ほどツイいてない人間はない!」。

そんな時、一人のユダヤ人のおばさんと出会い、親切にも自宅に泊めて頂きました。ツキに見放されていた五日市さんを見たおばさんは、かわいそうに思って、「ツキを呼ぶ魔法の言葉」を教えてくれました。

後日、五日市さんはこの言葉を実際に使うようになりました。そうしたら、次々に幸運なできごとが引き寄せられるようになりました。人間関係の改善。研究の成功。工学博士号取得。一流会社に就職が決まり、さらによい会社からヘッドハントされ転職し、世界的な発明をし、理想の女性と結婚をし、まさに、いいことずくめです。かつての五日市さんの面影もありません。

五日市さんの人生と運命を変えた「ツキを呼ぶ魔法の言葉」とは何でしょう? それは、「ありがとう」と「感謝します」と「ツイてる」の3つです。

嫌なことがあったら「ありがとう」。うれしいことがあったら「感謝します」。そして、口ぐせのように「ツイてる」と言います。難しくないですね。

人生は、だいたいうれしいことか?うれしくないことか?のどちらかです。うれしかったら「感謝します」。うれしくなかったら「ありがとう」と言うだけです。そして、どんな時にも、「ツイてる! ツイてる!」と言えばいいのです。

五日市さんに「ツキを呼ぶ魔法の言葉」を教えたユダヤ人のおばさんは、ユダヤ教徒ですから聖書を信じています。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、実は聖書の言葉なのです。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16~18)

また、「ツイてる」も聖書にあります。

「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩編1:2~3)

「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」(詩編23:6)

「ツイてる!」と信じたら、自然に口からもその言葉が出て来るものです。しかし、今は信じられなくても、いつも口にしていたら、段々、「私はツイてるかも知れない」⇒「私はツイてる」と信じられるようになり、やがて現実も、信じた通りになって行きます。

イエス・キリストは、「あなたの信じたとおりになるように。」(マタイの福音書8:13)と言われました。

聖書は、さらに「ツイてる」と語ります。

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28:20)

「いつも、あなたがたとともにいます。」⇒「神は私にツイていて下さる」のです。こんな素晴らしい人生がツイてないはずはありません。ツイて ツイて ツキまわる人生です。

神が一緒にいて下さるなら、「マイナスはプラス」に、「ピンチはチャンス」に変えられます。だから、有難い、嫌なことがあっても「ありがとう」と言えるのです。

最後に、創世記に出て来るヨセフの物語をお話します。

親に溺愛され、うぬぼれの強かったヨセフは、兄弟たちにねたまれ、嫌われていました。ある日、ヨセフは兄弟たちに半殺しの目に会い、エジプトに奴隷として売り飛ばされました。売られた先でヨセフは主人に気に入られますが、主人の奥さんからも気に入られ、甘い言葉で誘惑されました。しかし、誠実なヨセフは、その誘惑を跳ねのけますが、恥をかかされた奥さんは、「奴隷のヨセフから性的な乱暴を受けた!」と旦那に報告し、ヨセフに濡れ衣を着せました。怒った主人はヨセフを牢屋に入れられました。ヨセフは、思春期のほとんどを牢屋の中で過ごしました。しかし、神と共に過ごし、ある日、他の囚人の夢を解き明かし、その解き明かしがすごいので、エジプトの王様の夢も解き明かすことになりました。そのことがきっかけで、ヨセフは牢屋から出してもらっただけではなく、エジプトNO.2の地位である総理大臣になりました。ヨセフが総理として国を治めていたある日、自分を半殺しにし、エジプトに奴隷として売り渡した兄弟たちが、ヨセフが総理大臣になっているとは知らずに陳情に来ました。ヨセフは、そこで自分の身分を明かし、そのことを知って恐れた兄弟たちにこう言いました。

ヨセフは彼に言った。『恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。』」(創世記50:19~20)

ヨセフは、「お兄さんたちの悪意を、神が良いことに変えて下さったんだ。だから、怒っていないから心配しないで下さい」と言いました。ヨセフはまさに、自分に対するひどい仕打ちに対して、苦しみ、葛藤しながらも「ありがとう」と神に祈れるようになっていました。

その「ありがとう」がヨセフを、外国の総理大臣にまで引き上げたのです。

みなさんも、どんな時にも「ありがとう」と感謝の人生を歩んで行きましょう。

また、神はいつも共にいて、ツイていて下さるのです。だから「ツイてる!」と、自分が祝福されていることを口にして下さい。

これが「言葉の力」なのです。

今日も良い一日でありますようにお祈りいたします。今日もありがとうございます。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月13日(水)17時39分11秒
  「Now watching 517」

宣教師や牧師の集まりに参加しました。楽しく、エキサイティングな時間を過ごしています。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月13日(水)14時01分7秒
  「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉【970】2017/12/13(水) 自分がやりたいことよりも、神から見たやるべきことを優先する」

二者一択に困ることがあります。そういう時に、自分がやりたいことを優先しようとする自分がいることに気づきます。

苦悶し、葛藤することがあります。

しかし、神に祈り、自分の思いを手放し、神の手に委ねる決断ができると、心が自由になり、喜びと平安で満たされます。

そのようなことを、度々経験します。

人生、一寸先のことであっても、闇なのか、光なのかすらわかりません。

しかし、一寸先はおろか、明日も、明後日も、永遠に続く先でさえ神はすべて知っておらます。

その上で、最善の導きをして下さるのが神様です。

神を信じ、神に信頼したら、それが最善だとわかります。経験的にもわかります。

毎日毎日、一瞬一瞬、自分がやりたいことよりも、神から見たやるべきことを優先しながら、決断し、歩んでいきたいですね。

この後も、ステキな時間でありますように。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月13日(水)07時51分38秒
  「失敗とは、自らが決めない限り存在しない」

人生に失敗はありません。あるのは発見するチャンスだけです。

発明王のトーマス・エジソンは、「わたしは、今までに、一度も失敗をしたことがない。 電球が光らないという発見を、今まで二万回しただけだ」と言いました。

「失敗したくない」と恐れる人は、ちょっとうまくいかないとすぐに、「あー失敗しちゃった。これでもう終わりだ!?」と、自らに失敗の烙印を押してしまいます。

自分で自分に押すこの失敗の烙印ほど、力を奪い取ってしまうものはありません。

あなたの辞書から、失敗の二文字をなくしてしまいませんか。

それは単なる強がりではなく、「失敗は成功の基」と言われますが、失敗を発見のチャンスと考えて、それを新たな成功につなげていくことです。

「しくじるは稽古のため」
「失敗は成功の母」
「失敗は成功を教える」
「七転び八起き」
「禍を転じて福と為す」

これらのことわざが教えるように、失敗は失敗で終わらせない限り、それは発見のチャンスであり、成功につながっていくのです。

今日、いくつもの成功の種を発見し、それを前進の肥やしとさせて頂きましょう。

「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たちよ。私は、すでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。」(ピリピ人への手紙3章12節~16節)

今日もステキな1日でありますように。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月12日(火)14時42分33秒
  「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉【969】2017/12/12(火) 語る言葉と書く言葉」

私は、大きく分けて二つの方法で福音を伝えています。

一つ目は、語る声(歌も含)を通して。
二つ目は、文章を通してです。

声を通して語る方が即効性がありますが、文章を通して伝える方が、受け手側にもよりますが、反復してもらえることもあり、じわっと効果が現れ、それが永続的に続きます。

準備する私にとっても、文章の方が、より深く心に刻まれます。

どんな文章を考え、準備し、書くかによって、その内容が心に影響を与えます。

今日は、朝から説教の準備をしました。準備の過程において、苦悩や葛藤もありますが、心が潤され、恵まれた時間でした。

ラブレターを書くことで、その相手に対する気持ちが整理され、恋愛感情が深まっていきます。

インターネットで、誹謗中傷の書き込みをすることで、相手に対する憎しみ、妬み、怒りに油を注ぎ、その思いを深く心に刻みつけることになります。

私は、否定的な感情が湧き上がった時には、神様に祈って、心をいやして頂きます。

文章にすることは、書いていて嬉しくなり、喜びや平安に溢れる内容に限定しています。

書く言葉は、自分に対しても、人に対しても、即効性はなくても、永続に影響を与えますので、内容に気をつけたいと思います。

語る言葉も大切です。 言葉は、感情と霊を包んで発します。

語る本人も、聞く人にも、強い影響を与えます。

感情や霊を内包して発するからです。

かわいい後輩に、「お前バカだな^ - ^」と言っても、そのほほえましい思いと共に発せられるので、その思いが伝えられまさす。

しかし、憎たらしい相手に、「お前バカだな!」と、憎しみや攻撃を込めて言ったら、その思いが伝えられます。

私たちの、語る言葉であっても、書く言葉であっても、それを通して愛が伝えられるようにしたいものです。

それが、自分の心や頭で反復され、口を通して出て行き耳で聞くので、自分自身にも大きな影響を与えることになるからです。

そして、当然、人に対しても強い影響を与えます。「私の言葉や文章が人に影響を与えることなんてないだろう?」と安易に考えないで下さい。

そしてもう一つ、忘れてはいけないことがあります。神様がそれを聞かれ、感じられるということです。

神様が悲しまれることを考えたり、口にしないで、神様が喜ばれることを考え、口にしましょう。

その結果が、自分に帰ってくるのですから。

あなたの心は、あなたの語る言葉と書く言葉に影響されます。

それが、幸せと不幸をも決定させてしまうのですから。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月12日(火)04時23分17秒
  「喜ぶ人と一緒に喜ぼう!」

毎日、ネット上でみなさんの幸せな顔を思い描きながら、幸せを感じさせてもらっています。みなさんの幸せは私の幸せだからです。

ベルナノス(Georges Bernanos、1888~1948、20世紀フランスの作家、思想家)は、『他人の喜びに喜びを見出すこと。これが幸福の秘訣である。』と言いました。

ともすると、「自分の喜びに喜びを見出すこと」こそが、幸福の秘訣であると考えやすいものです。

お金持ちになり、豪邸に住み、高級車に乗り、豊かな生活をしたり、権力があり、有名人として生きることが幸せだと考えやすいのではないでしょうか。

実際は、成功者ほど孤独であったり、物質的には豊かなのに心がすさんでいる場合があります。

ポイントは、豊かさがいけないというのではなく、その人が、「他人の喜びに喜びを見出しているか?」。あるいは、「自分の喜びだけに喜びを見出そうとしてるか?」です。

私は牧師として、他人が幸せになることをひたすら願っています。聖書の言葉を語りながら、喜んで聞いてくれている人の姿を見て、無上の喜びを感じます。

他人の喜びに喜びを見出そうとしたら、幸せになれます。

他人の喜びに喜びを見出そうとしないと、そこに忍び込んで来る感情はねたみです。

自分の幸せだけを願っても、世の中、自分より幸せそうな人はいくらでもいるからです。

その人に対してねたみを感じた途端、不幸になり、惨めになります。

その時に、自分の心の貧しさに原因があると気付けたら良いのですが、不幸の原因を相手のせいにしていたとしたら、不幸のサークルから抜け出せなくなります。

世の中で、相手を否定したり、非難したり、いじわるをしたり、何らかの悪意を持ってやって来る人は、そこにねたみの思いがどこかに潜んでいるものです。

ねたんでいる相手が持ってる自由、豊かさ、賞賛、富などをほしいと思っているのに、横取りされてしまったように感じて腹が立ちます。

相手の喜びに喜びを見出せる人はどうするでしょう?

「よかったね。」と心から言ってあげることができます。

一緒に喜ぶべるのです。

そうできたら、絶対に幸福になるし、喜びに溢れて来ます。

さらにもう一歩進んで、他人の喜びのために仕える事です。

他人の喜ぶ顔を見るために自分を犠牲にして、相手に与えるように生きたら、最上の幸せと最上の人生になります。

イエス・キリストは、まさに他人の喜びに仕えた人です。

他人の喜びのために、他人が持っている不幸を身代わりに背負って十字架について死なれました。

十字架の死によって罪を赦し、悪魔を追い出し、心と体の健康を与え、祝福を与えられ、天国に入れて下さいます。

イエス様は、私たちの喜びに仕えるために生きられました。

私たちは、誰かの身代わりに死んだり十字架にかかることは出来ませんが、しかし、そういう思いで生きることは可能です。

イエス様はあなたは愛されています。あなたの喜びを喜んで下さり、あなたの喜びのために仕えて下さいました。

その愛に感動し、その愛を受け止め、今度はあなたも、他の誰かの喜びを喜びとし、喜びに仕えていきたいですね。

そんな幸せと喜びに満ちた1日を過ごしていきましょう。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月11日(月)12時38分41秒
編集済
  「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉【968】2017/12/11(月) ただ(無料)でTV伝道できて感謝。救われて感謝!」

定期的にキリスト教TVで説教を語る出演者としての依頼を受けます。

若い頃から(今も若いと思っていますが)、TVやラジオで説教をすることが夢で、祈っておりました。

ただ(無料)で聖書からの説教を視聴者に語りかけられることを感謝致します。

ありがたいことです。

そのTV番組がどれくらいの地域に届けられるのか、地上波なのか、衛星放送なのかなどによって変わりますが、番組に出演すると、手紙やはがきに、「励まされました。ありがとうございます」などと書いて送ってくれる人がいます。こちらも励みになります。

私にとっては、TV番組に出演することでお金はかかりませんが、TV番組の制作会社はお金がかかります。

ところで、私がクリスチャンになれたのは、ただイエス様を信じるだけでした。ただ(無料)です。

ある宗教の人から、「信じるだけで救われるなんて、そんなのちゃんちゃらおかしい!」となじられたことがあります。

しかし、神の側から見たら、無料ではなく、神の1人子イエス様をクリスマスにこの地上に送り、十字架で死なせ、罪の贖いをして下さったのです。高い代価が払われています。

福音とは、私の側から見たら、うまい話です。信じるだけで救われ、信じるだけで永遠のいのちを頂き、天国に入れるのですから。

しかし、神は、これ以上ないほどの高い代価であるイエス様のいのちを支払って下さいました。

それは、単に神が気前が良いからではありません。それ以外に私たち人間が救われる方法がないからです。

「この方以外には、だれによっても救われません。天下に、人がその名を呼んで救われる名は、ほかにないのです。」(使徒の働き? ?4:12?)

聖書やキリスト教が排他的なのではなく、「神が救いの道を与えて下さった。信じなさい。そうしたら救われる!」と語って下さっているのです。

クリスマスにサンタクロースがプレゼントを持って来てくれる理由は、神がイエス様というプレゼントをあなたに与えた。そのプレゼントを受け取ってほしい!」と伝えるためなのです。

あわてんぼうのサンタクロース
作詞:吉岡治
作曲:小林亜星

あわてんぼうのサンタクロース
クリスマスまえに やってきた
いそいでリンリンリン
いそいでリンリンリン
鳴らしておくれよ鐘を
リンリンリン リンリンリン
リンリンリン

あなたも神からのプレゼントを受け取って下さい。

この後も、ステキな時間をお過ごし下さい。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月11日(月)07時42分18秒
  「人を注意する時に大切なこと」

時々、人を注意して指導しなければならなくなる立場に立たされます。

それが子ども相手ならいざ知らず、大の大人が相手ならつらいです。

どんな人でも、人から注意されたり、批判されることはうれしくないからです。

この時、「私は正しい!」というスタンスで注意するとしたらどうでしょうか?

キツイ対応になります。

もちろん、言うべきことは言わなければなりませんが、少なくても、上から目線で物を言うというのは、相手が素直に受け止められない可能性が高くなります。

「私は正しい!」というスタンスは、自分の事を棚に上げなければできることではありません。

誰もが失敗をした経験がありますし、人から注意されて、わかっているけれど、素直に「ごめんなさい」「わかりました」「教えて下さってありがとうございます」などと言えなかった経験があるはずです。

それを思い起こしながら語るとしたらどうなるでしょう。

「私も同じような失敗をするし、弱さを持っているけれど、あえて言わせて頂きたい」というスタンスになります。

これは上から目線にはなり得ません。謙ったスタンスであり、同じ目線です。

そうやって注意したとしても、必ずこちらの真意が伝わるかと言えば、そうではありません。

プライドが高く自信のない人、ナルシストで過剰な自己愛を持った人などはは、真っ赤な顔をして逆切れすることも考えられます。

そういうリスクを犯してでも、嫌われることを恐れずに言わなければならない時があります。

極めつけは、相手の幸せや祝福を願いながら注意することです。

聖書は、「互いの重荷を負い合いなさい」と語ります。

「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」(ガラテヤ6章1節~5節)

自分を棚に上げないで言うことはつらいです。

通常、そこまで考えたら言えなくなってしまいます。

しかし、それでもあえて言うとしたら、相手への愛です。

そのように、互いに重荷を負い合って、より良い社会を目指していきたいですね。

私は、イエス様の愛を思い出します。

イエス様は、罪のないお方であるだけではなく、罪を知らないお方です。この方が私の罪を身代わりに背負って十字架で死なれました。

そして、私を責めることなく、赦し、愛し、受け入れて下さいました。

人を注意する前に、この方の愛を体験し、祈りながら言わせて頂くことが、最も相手にとって益になる言葉ではないかと思います。

神の愛に感謝しつつ。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月10日(日)19時52分10秒
  「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉【967】2017/12/10(日) 幸せなクリスマス」

毎週日曜日になると特に感じることがあります。

「私は牧師なんだ」ということです。

毎日、牧師としていろいろな奉仕をしていますが、日曜日に教会で奉仕することて、自分は牧師として神様に立たせて頂いていることを強く感じさせららます。

クリスチャンになる前や、なったばかりの頃は、クリスマス、イースター、ペンテコステというキリスト教の三大祭が特別な日であると感じていました。

長い信仰生活を送り、牧師になってからは、毎週日曜日が特別な日であり、最高の祭であると感じます。

クリスマスを、年に一度盛大にお祝いすることも悪くありませんが、クリスマスは毎週日曜日にも祝うことができます。

イエス様を心の中心にお迎えし、イエス様と深い交わりをすることで、クリスマスとなるのです。

元来、クリスマスは、「Christ(キリスト)のmass(ミサ)」からきている言葉です。

キリストが人間の姿を取ってこの地上に生まれて下さったことを信じ、受け入れ、告白し、祝い、礼拝することがクリスマスなのです。

クリスマスを12月24日の日没から25日の日没までに限定しなくて良いのです。

今から、キリストを礼拝し、愛していきましょう。

今日が、今が、クリスマスなのです。

ステキなクリスマスを過ごしましょう。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月10日(日)07時43分7秒
  「心が亡びてしまう前に」

忙しくと動き回っているばかりだと、心を亡(な)くし心を亡(ほろ)ぼしてしまいます。

空を見上げたら青空が広がっていたのに、気づかなかったかもしれません。

目を下ろせば道端にかわいらしい花が咲いていたのに、気づかなかったかもしれません。

あなたと話したがっていた寂しい人が近くにいたのに、何一つ目に入ることがなかったかもしれません。

優しく吹くそよ風に気づかず、親切な忠告にも馬耳東風でいたかもしれません。

忙しくしていることは、あなたをそんな状態に追い込むほど価値があるものですか?

今ならまだ間に合います。

「忙」という字は、「心を亡ぼす」と書きますが、心が疲れてダメになってしまう前に、一度棚上げして、休んでみたらどうでしょうか。

「静まって、 わたしこそ神であることを知れ。」(イザヤ書46章10節)

日曜日は教会に行って、あなたを造られた神の前に進み出て、礼拝をしませんか?

人間の取扱説明書である聖書には、週に一度は神を礼拝し、安息をする必要があることを命じています。

新宿福興教会HP http://www.geocities.jp/sgr_ch/

教会に行けなくても、インターネットで神さまを礼拝しませんか?
「生放送」〈1〉朝10時半~昼12時 〈2〉夕4時半~6時

ニコニコ動画  http://nico.ms/l/co114841

心が亡びてしまうその前に、神への礼拝と安息をして下さい。
 

有楽町駅銀座口路傍伝道

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月 9日(土)23時48分38秒
  「Now watching 516」

有楽町駅銀座口でのクリスマス・ストリート・ライブ(路傍伝道)終わりました。

「メリー・クリスマス!」の呼びかけに応えてくれたり、募金箱にお金を入れてくれるのは、主に外国人でした。

一駅一駅雰囲気が違うので、新鮮さと楽しさがありますが、通りがかかる人たちとの一体感を感じにくかったです。

しかし、雰囲気がいいからとか、盛り上がったから良いのではなく、神に祈り、聖霊に満たされることこそが大切だと感じます。

振り返って考えてみると、たくさんの人たちに神の愛を届けられたと感じます。良い時間でした。

どうぞ、私たちの路傍伝道の働きのためにお祈りをお願いします。感謝を込めて。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月 9日(土)23時23分2秒
編集済
  「Now watching 516」

有楽町駅銀座口でのクリスマス・ストリート・ライブ(路傍伝道)終わりました。

「メリー・クリスマス!」の呼びかけに応えてくれたり、募金箱にお金を入れてくれるのは、主に外国人でした。

一駅一駅雰囲気が違うので、新鮮さと楽しさがありますが、通りがかかる人たちとの一体感を感じにくかったです。

しかし、雰囲気がいいからとか、盛り上がったから良いのではなく、神に祈り、聖霊に満たされることこそが大切だと感じます。

振り返って考えてみると、たくさんの人たちに神の愛を届けられたと感じます。良い時間でした。

どうぞ、私たちの路傍伝道の働きのためにお祈りをお願いします。感謝を込めて。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月 9日(土)14時47分36秒
  「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉【966】2017/12/9(土) 持ち運びパソコンがあれば、いつでもそこがオフィス」

4年前までは固定パソコンでほとんどの仕事をしていました。

それがスマートフォンを持つようになったことで変わりました。

最近では、作業以外の100%がスマホです。

ネットの投稿も、投稿する写真も文章もすべてをスマホで作業しています。

連絡も、データ交換、その他の仕事もスマホです。

一つ困ることは、スマホの充電池がすぐに空になることです。

それは、10回くらい充電できる外付けバッテリーを3個持って、代わり番こに使っています。

大切な話でも、会議をしていない時や、奉仕していない時や、人と会ってない時等には、すぐに対応できます。

便利な時代だなと思います。

もちろん、その便利さがマイナスに働くこともあるかも知れませんが、私は感謝したいと思います。

いつも皆様ありがとうございます。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月 9日(土)07時50分45秒
編集済
  「小さな幸せに敏感でいたい」

「幸せ」と感じられることは、年と共に変化します。

子供の頃、空を見上げているだけでうれしくなって、「あの雲に乗ってみたいな」と考えるだけで幸せになりました。

初めて人を好きになった時、すべてが輝いているように見えて、好きな人のことを思うだけで幸せでした。そうじゃなかったですか?

今は、大きな幸せを追い求めて、知らないうちに小さな幸せを感じることを忘れていることはないですか?

幸せは、頭で判断することではなく、素直な心で感じるものです。

ささやかな小さなことに幸せを感じることができれば、その人は幸せな人だと思います。

私は、年に一度、大きな幸せを感じることよりも、毎日、小さくても幸せを感じられる人でありたいと思います。

私は、みなさんのことを考えることで、幸せを感じます。だから、ネットに文章や写真を投稿し続けられるのだと思います。いつも幸せをありがとう。

素敵な一日をお過ごし下さい。

「神の恵みをいたずらに受けてはならない。神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた。』見よ、今は恵みの時」(コリント人への手紙第二6章1節~2節)
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月 8日(金)22時24分2秒
  「Now watching 515」

山手線祈祷会&新橋駅プレ伝道&天国宴会(野郎ラーメン)終わりました。

山手線内回りは随分混んでいました。超密着感のある中で、列車内はまるで教会のようでした。

プレ伝道は、結構雨で濡れました。楽しい時間でしたね。

天国宴会は、立ち食いそばに行こうとしましたが、イマイチボルテージが上がらず、二郎ラーメンを目指しましたが、途中で、二郎インスパイアの野郎ラーメンを見つけので、そこに入りました。なかなかでした。

今日も素晴らしい時間でした。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月 8日(金)13時15分41秒
  「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉【965】2017/12/8(金) 神様ってすごい」

寒いのが好き、冬が好きと言っているのが強がりだと思えるほど、寒さが厳しくなって来ました。

今晩の山手線祈祷会は暖かいですが、路傍伝道は寒いのではないかと、気持ちが縮こまってしまいそうです。

来週の月曜日には、キリスト教のテレビ番組の収録があります。

10数年牧師をしていると、いつでも説教することは可能です。

しかし、新鮮で、タイムリーな説教をするためには、一から準備をしなければなりません。

午前は、その説教準備に費やしました。

とても良い時間でした。

心が強められ、路傍伝道をする勇気が湧き上がって来ました。

神の励ましは、人や状況を通して与えられることがあります。

落ち込ませられるのも、人や状況を通して与えられます。

実は、神は、落ち込ませられますが、落ち込みという経験を通して私たちを祝福して下さり、祝福の後に、励まして立たせて下さいます。

落ち込まないと、人の弱さが理解できないし、優しくならません、

落ち込まないと、神に頼ることができません。

落ち込まないと、自分を変えることができません。

神は、目的を持って落ち込ませ、その目的が終わったら慰め、励まして下さり、立ち上がらせて下さいます。

神様ってすごいと思いませんか?

この後も、ステキな時間をお過ごし下さい。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月 8日(金)07時42分25秒
編集済
  「許しの愛と赦しの愛」

日本語の漢字は、使い分けることで微妙なニュアンスの違いを表現できます。

「許しの愛」は、「許容や妥協」が含まれます。私たち人間はこれが限界です。

しかし、「赦しの愛」は、「いっさい根に持たない赦し」です。

無理に人を許そうとしても、ストレスを生じさせてしまいます。

また、人を許せないまま我慢したり、ごまかしていると、感情が強い憎しみに変わり、心の奥に潜り込んでトラウマになる恐れがあります。

すると、許せない相手と似た人を許せなくなり、毛嫌いしたり、過剰反応して、心がきゅうくつになります。

許せない時には、無理に許そうとしたり、我慢したり、ごまかすのではなく、相手とのコミュニケーションを深めるきっかけと考えて、素直に、かつ冷静に、自分の気持ちを伝えてみましょう。

自分が傷ついたことを説明し、相手の話をじっくり聴いてみて下さい。折り合うことは難しいかも知れませんが、大切なことは、お互いの立場の違いを理解することです。

理解することが、相手を許す第一歩につながっていきます。

相手の生い立ちや、相手の置かれている状況を知る時に、責める気持ちが理解する気持ちに変わり、許す気持ちに変わっていきます。

さらに、「許し」が「赦し」に変わるためには、神に祈って、自分の傷ついたことを説明し、神の話をじっくり聴いてみて下さい。

きっと、あなたが誰かからされて傷ついたよりも、はるかに大きな罪を犯し、神様を傷つけていたことに気がつくでしょう。

そして神様は、あなたの罪を、キリストの十字架によって完全に赦して下さっていることを知った時に、あなたの傷はいやされていき、人を赦す奇跡が起こりはじめます。

「許し」も「赦し」も愛です。愛には犠牲と痛みが伴います。しかし、その愛はあなたの心を解放し、いやし、涙が笑いに、憎しみが好意に変わり、あなたを幸せにします。

「許す愛、赦す愛」は、あなた自身とあなたの人生を祝福します。

クリスマスの時期になりました。毎年この時期になると、寒さが厳しくなります。そんな時だからこそ「許し」と「赦し」について共に考え、実践して心を温めていきたいですね。今日も祝福がありますように。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月 7日(木)18時20分45秒
  「Now watching 514」

祈祷会で共に祈りました。心が燃えて燃えて仕方がありません。

祈祷会後には、ガンで苦しんでいる婦人のために祈りました。神の力が臨み、手を置いて祈っている手と体が熱くなりました。

愛するあなたのためにお祈りしています。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月 7日(木)14時56分46秒
  「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉【964】2017/12/7(木) 会うことには意義がある」

今朝は池袋で仕事があり、お昼から10数年会ってなかった友人と再会しました。

一度会って、会ったその日に新宿で一緒に路上ライブをしました。その日、キリスト教新聞の取材を受けて、牧師2人の路上ライブというテーマで記事として掲載されました。

お互いにインターネットを通して伝道をしているので、記事や写真を通して、何となくつながっていますが、再会してみて、会うことの祝福、会うことの意義を感じました。

とても良い時間を過ごしました。

10数年も会わなかった理由は、住んでいる場所が東京と九州で離れていたこともありましたが、近くに来た時に会う機会がありましたが、たまたま忙しくて会えなかったからです。

友人同士であるならば、少し犠牲を払っても会うことが一番ですね。

同じ神学校を卒業したある友人とは、年に数回何の利害関係も、仕事の関係もないのに会って、半日や全日を過ごします。

そのことによって人間関係が保たれているだけではなく、深められ、支え合っています。

最近、オフ会をやめてしまって、路傍伝道に切り替えてしまいましたが、もし良ければ、一緒に路傍伝道をしたりしながら心を通わせませんか?

また、伝道の後には軽食を食べながらの親睦会をやりますので、心を通わせる時間を持ちませんか?

会うことの意義は大いにあります。

人生は一度だけです。そのたった一度の人生の中であなたと私が出会えたのは、奇跡だと思います。

その関係を大切に思いますので、時間を見つけて会って食事をしたり、お茶を飲んだり、共に時間を共有しませんか?

この後私は、祈祷会の奉仕があり、夕方はiPadの解約に行きます。

みなさんはどんな時間を過ごされますか?

ステキな時間をお過ごし下さい。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月 7日(木)07時53分42秒
  「クリスマスを祝う」

クリスマスとは、「Christ(キリスト)のmass(ミサ)」からきている言葉です。

キリストの誕生を喜び、キリストを礼拝することを意味します。

日本では、キリストなしのクリスマスという芸当が行われることがあります。

なぜクリスマスを祝うのか?
キリストは何のために来られたのか?
キリストと私にはどういう関係があるのか?

もう一歩踏み込んで考えることができたら、本当の意味でのクリスマスを祝えるのではないかと思います。

クリスチャンは、心からキリストを礼拝し、キリストを信じない人は、ちょっとだけクリスマスについて考えてみませんか?

キリストは、一宗教の教祖ではなく、全人類の救い主であり、神のひとり子です。

2017年前、イスラエルのユダヤ地方のベツレヘムの町に生まれました。

「御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。』」(ルカ2:10~11)

今年のクリスマスは、今までとは違うクリスマスを祝えたら良いですね。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月 6日(水)18時45分9秒
編集済
  「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉【963】2017/12/6(水) 幸せな一瞬一瞬を生きる秘訣」

年を経るにつれて感じることが幸せです。

重い責任が与えられ、仕事の量も多くなります。

アップアップすることもあります。

ややこしい、めんどくさい仕事が好きではないのに、時々そういう仕事が舞い込んで来ます。

しかし、焦ってイライラしながら仕事をやってけなくても、神様は、目の前にある仕事をやり遂げる力をも与えて下さるのです。

神様に委ね、神様と共に仕事を行えば、すべてやり遂げることができるようになっているのです。

ですから、恐れ、心配、焦りこそが敵なのです。

聖書は語ります。

「何事も思い煩うな」と。

恐れ、心配し、焦ることは、神様がおられるのに、神様がおられないかのように考える結果湧き上がってくる感情なのです。

あなたがそこにいるのに、あなたがいないかのように扱われたとしたらどうでしょうか? 寂しいはずです。

神様がおられることを認め、信頼し、頼りながら生きていきましょう。

そうしたら、恐れも、心配も、焦りも消えて無くなっていきます。

どんな状況の中にあっても共におられ、助けて下さる方が私の側に立っていて下さるとは何と幸いなことでしょう。

ここに私の幸せ源泉があるのです。

私はあなたが大好きです。愛しています。神様があなたを大好きであり、愛しておられからです。

共に幸せな時間を過ごしてまいりましょう。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月 6日(水)07時40分20秒
編集済
  「失敗にも感謝」

私たちの人生において、「失敗を回避できるマニュアル」があるとしたらありがたいですが、今のところ、そういう本の出版はされていません。

数え切れない失敗を思い出す時に、後悔し、自己憐憫に陥って終わってしまったとしたら、それこそ本当の失敗です。

失敗を失敗に終わらせず、失敗を成功に変える方法があります。

「失敗から何かを学ぶ」ということです。

失敗は、貴重な学びの機会です。

失敗するたびに、解決策を一つ見出したことになるからです。

失敗から学ぶことができるとしたら、失敗に感謝できます。

私は、失敗を通して、たくさんのことを学ばせていただきました。

だから失敗に対しても感謝しています。

もちろん、「失敗を繰り返してもいい!」ということではありません。

失敗から学ぶ人は、失敗を繰り返さないか、繰り返したとしても、成長することができます。

今日もステキな1日でありますように。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月 5日(火)13時54分46秒
  「Now watching 513」

英語が飛び交うのは耳に新鮮です。使ってないため英語を忘れてしまいました。気を使って通訳をして頂きました。

表面的に見ると、東洋人と西洋人は顔立ちも、体形も違うので、外国人と感じますが、心が一つになると、一つだなと感じます。

私たちが一つになれたらステキですね。一つである状態を保っていきましょう。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月 5日(火)12時11分2秒
編集済
  「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉【962】2017/12/5(火) 私たちの国籍は天にある」

山手線祈祷に参加しました。朝は韓国人に囲まれ、午前中はアメリカ人に囲まれました。しかし、みんな天国人です。とても楽しく、良い時間でした。

今週金曜日は路傍伝道ネットワークで「山手線祈祷会」と「新橋駅プレ伝道」と「天国宴会(食事会)」があります。

12月8日(金) 「第2回山手線一周祈祷会&新橋駅プレ伝道&天国宴会」 (列車上祈祷会+複数の出口でミニ伝道+食事会)

待合せ:山手線新橋駅 内回り 先頭付近に午後6時15分までに集合

祈祷会:午後6時30分~7時30分まで電車に乗って祈祷会。

伝道:祈祷会終了後に新橋駅のすべての出口で軽く路傍伝道

宴会:終了後に食事会

良い1日のスタートを切りました。この後も、ステキな時間をお過ごし下さい。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月 5日(火)09時55分36秒
  「Now watching 512」

韓国の牧師たちと祈りと食事を一緒にしました。心潤され、満たされ、リフレッシュされました。今日も全力で生きていきます。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月 5日(火)07時29分25秒
  「小さな幸せに鈍感にならないで」

「幸せ」と感じられることは、年と共に変化します。

子供の頃、空を見上げているだけでうれしくなって、「あの雲に乗ってみたいな」と考えるだけで幸せになりました。

初めて人を好きになった時、すべてが輝いているように見えて、好きな人のことを思うだけで幸せでした。そうじゃなかったですか?

今は、大きな幸せを追い求めて、知らないうちに小さな幸せを感じることを忘れていることはないですか?

幸せは、頭で判断することではなく、素直な心で感じるものです。

ささやかな小さなことに幸せを感じることができれば、その人は幸せな人だと思います。

私は、年に一度、大きな幸せを感じることよりも、毎日、小さくても幸せを感じられる人でありたいと思います。

私は、みなさんのことを考えることで、幸せを感じます。だから、ネットに文章や写真を投稿し続けられるのだと思います。いつも幸せをありがとう。

素敵な一日、そして、週末をお過ごし下さい。

「神の恵みをいたずらに受けてはならない。神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた。』見よ、今は恵みの時」(コリント人への手紙第二6章1節~2節)
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月 4日(月)21時26分20秒
編集済
  「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉【961】2017/12/4(月) テレビドラマよりすごいドラマ」

今日は3時間以上JR川口駅で路傍伝道しました。

最初は東口の2階デッキでやりましたが、雨が降って来たので一1階に移動しました。

そこでは、エホバの証人の人たちが(エホバ式の)路傍伝道していました。私たちは歌い、語りますが、彼らは、冊子を手に持って、じっと立っているだけです。違う意味でインパクトがあると感じました。

「異端だ!」「何だ!」と言う前に、「もっともっと伝道しなくっちゃ!」と思います。一緒にやりましょう^ - ^

次に西口の2階に移動して伝道をしはじめると、雨がザーザー降って来たので、屋根のある1階に移りました。

そこにはタバコの喫煙所があり、20人を超える人たちが美味しそうにタバコを吸っています。

人の表情を見ていたら、1人殺気立った人がいました。タバコを吸い終わると、「うるっせんだよ!」と絡んで来ました。

私がひるむことなく伝道を続けていると、今度は、幹事長の高木君に絡んで来て、私をゆびさして、「こいつをやめさせろ!」と絡んで来ました。

昔の私だったら、喧嘩になっていたかも知れませんが、一緒にやったいるメンバーに危害が及んだらいけません。「何でお前に言われなければいけないんだよ!」と言うのではなく、一瞬心の中で祈りました。

神様が彼を愛していることがわかりました。彼のために祈りました。

そのほかにも、「まさか!」と思えるような、テレビドラマよりもはるかにおもしろいことがたくさん起こりました。

すべてが祝福に変わりました。

3時間、めちゃくちゃすごい時間であり、奇跡のオンパレードでした。

神が守って下さり、本当に良い時間でした。

終了後には、川口市内のラーメン屋に食べに行き、さらに、車で新大久保まで来て、焼き鳥を食べ、かなりの時間語り合ってから、それぞれが帰路に就きました。

中身の濃い1日でした。

おやすみなさい。また明日。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月 4日(月)15時15分51秒
  「Now watching 511」

クリスマス会の第2部は食事会。和やかで、楽しい雰囲気です。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月 4日(月)13時34分59秒
  「Now watching 510」

全日本リバイバル合同祈祷会のクリスマス会を行なっています。私は司会と祈祷指導、ギターで音楽リードをさせて頂いています。12月に入り、クリスマスのイベントが続きます。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月 4日(月)07時41分48秒
  「『5000分の100』と『あなたがうまれてきた確率』」

私が初めて年賀状を出したのは、小学3年生の時で、初恋の相手でした。

ある日、親友と年賀状の話をしていたら、彼も同じ女の子に年賀状を出したことを知りました。

冬休みが終わり、その女の子と顔を合わせる恥ずかしさが半分に減りました。

12月に入り、年賀状を書く季節になりましたが、年賀状というといつもその時のことを思い出します。

1通から始まった年賀状は、気がついたら400通近くに増えました。大半は仕事の人間関係です。毎年年賀状を出すのが大変で、大きな悩みとなり、心の重荷となりました。忙しい時期に、丸2~3日、年賀状書きに専念しないといけません。

ある時、こんなに苦労するなら、私に返事を書いてくれる人も苦労しているだろうし、いっそのこと「年賀状を書くのをやめよう」と思い立ちました。

しかし、0か100かでは割り切れずに、代わりに、Eメールで、クリスマスカードを兼ねた年賀状を出すようになりました。

1000通くらいからはじまり、気がついたら5000通を超えていました。

ワンタッチで一斉送信できれば簡単ですが、案外大変です。一日に出せるメールの数が決まっていますし、数日かかります。

大変な割には、もらった相手に重みやありがた味がないのか、5000通のうち返事が帰って来たのは100通くらいでした。

50通送って1通返ってくる確率です。

一方通行でも、私のメールを受け取って、私を思い出してくれた人がいるなら、それだけでうれしいです。100通に重みを感じますね。

ところで、私がこの世にうまれてくる確率はどれくらいだろうと考えたことがありました。

この世界には、星の数ほどの男性と女性がいます。父と母が出会う確率は、50通分の1通より遥かに低い確率です。

さらに、父と母が結婚をしただけではなく、その二人から私がうまれてくる確率は、もう天文学的な数字になると思います。

その数字がどんなにすごくても、今私がここに存在していることは確かなことです。

すごい確率の中から私がこの世にうまれ、存在しているのは、それだけでとても大きな意味があります。

あなたも同じです。

精子と卵子の結合は、おそらくどんな戦いよりも熾烈な戦いだったと思います。勝ち残ったのがあなたです。

あなたがこの世に存在しているだけで、すでに勝利者です。

どうぞ、自分を嫌わないでください。もっと自分に自信を持って下さい。

その背後には神様の選びがありました。

神様があなたを愛し、あなたがあなたであるように造られ、あなたは今存在させて頂いているのです。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです。」(ヨハネの福音書15章16節)

神様はあなたを見てこう言われます。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43章4節)

あなたは偶然この世に存在しているのではありません。

偶然だと考えたら、ちょっと偶然が少し違ったとしたら、あなたは存在しなかったかも知れないことになります。

そうではありません。

神様は、あなたがこの時代、あなたの両親の元で、あなたとしてうまれてくるように計画し、造られたので、あなたが今存在するのです。

その絶大な重みを感じながら、今日一日も、そして、これからも歩んでいって下さい。幸せになってください。

ステキな一日でありますように、
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月 3日(日)22時57分2秒
  「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉【960】2017/12/3(日) 愛するとは?」

人を愛するとは、その人のために犠牲を払うことではないでしょか。

その人のために時間を割くことが、愛することだなと思います。

時間の分量と共に、時間の質も大切ですが、時間とは、命の一部です。

何歳まで生きられるかはわかりませんが、限りがあります。

定期的に、いろいろな仕事をしていますが、教会と路傍伝道の活動に一番の時間を割いています。

教会員と過ごす時間は、一週間に一度か二度たけですが、日曜日の説教の準備の時間、教会員のために毎日祈る時間を合わせたら、かなりの時間になります。

路傍伝道ネットワークの皆さんとは、月に何度も会っています。平均すると一週間に二回です。

今月はクリスマスがありますが、クリスマスはクルシミマス(苦しみます)ではありません。喜びの時です。

クリスマスにちなんでではありませんが、九回の活動があります。

12月4日(月) 「クリスマス・アドベント 川口駅東口 3時間伝道」 (状況により早く終わる可能性もあります)
川口駅東口に午後4時30分集合
午後5時~8時  (終了後に慰労会)

12月8日(金) 「第2回山手線一周祈祷会&新橋駅プレ伝道」 (列車上祈祷会+複数の出口でミニ伝道)
山手線新橋駅 内回り 先頭付近に午後6時15分までに集合
午後6時30分~7時30分まで電車に乗って祈祷会。
祈祷会終了後に新橋駅のすべての出口で軽く路傍伝道 (終了後に食事会)

12月9日(土) 「山手線一週路傍伝道の旅 有楽町駅銀座口伝道」 (改札出て右突き当り)
有楽町駅銀座口に午後6時30分に集合
午後7時~8時30分 (終了後に食事会)

12月15日(金) 「第3回賛美集会」 (賜物発掘と霊的一致を目指して)
御茶ノ水クリスチャンセンター402号室に午後6時30分に集合
午後7時~9時 (終了後に食事会)

12月18日(月) 「第3月曜日 定例新宿伝道」 (毎月おなじみの新宿アルタ前伝道)
新宿駅東口アルタ前広場に午後6時30分に集合
午後7時~8時 (終了後に食事会)

12月23日(土・天皇誕生日) 「クリスマス 3時間 大路傍伝道 in 新宿」 (クリスマスイベント)
新宿駅東口アルタ前広場に午後4時30分に集合
午後5時~8時 (終了後に食事会)

12月25日(月・クリスマス) 「新宿クリスマスラブコミ」 (主催:ラブコミ 後援:路傍伝道ネットワーク)
新宿駅東口アルタ前広場に午後6時30分に集合
午後7時~8時 (終了後に食事会)

12月29日(金) 「第3回山手線一周祈祷会&原宿駅ミニ路傍伝道」 (列車上祈祷会+ミニ伝道)
山手線原宿駅 外回り 先頭付近に午後5時15分までに集合
午後5時30分~6時30分まで電車に乗って祈祷会
終了後に原宿駅竹下口前で軽く路傍伝道 (終了後に食事会)

12月30日(土・晦日) 「路傍伝道納め in 新宿&忘年会」 (今年最後の活動)
新宿駅東口アルタ前広場に午後6時に集合
午後6時30分~8時 (終了後に忘年会)

1月1日(月・元日) 「初路傍伝道 in 渋谷駅ハチ公口&新年会」 (新年最初の活動)
渋谷駅ハチ公口広場に午後6時30分に集合
午後7時~8時 (終了後に新年会)

時間を割くことは、命の一部を使うことです。

時間を使うことを通して、神を愛しています。

教会も路傍伝道も、神様のお仕事だからです。

しかし、私は、関わる一人一人を愛しています。

インターネットを通して関わる人を愛しています。

やはり、文章と写真掲載するためには準備する時間がかかりますし、投稿にも時間がかかるからです。

もし、地球に住むすべての人と関わりたいと思っても、それは非常に難しいことです。

有名な人になって、テレビに出演てきたとしたら、世界中の人に向かって語ったり、歌ったりできるますが、一人一人と面と向かって時間を過ごすことは不可能に近いと思います。

限られた人と、限られた時間しか過ごせません。

愛とは、共に時間を過ごすことからはじまり、共に時間を過ごすことで完成していくのではないかと思います。

しばしの時間であったとしても、私の文章を読み、掲載する写真を見てくださってありがとうございます。

私は、そのことを通して愛されていると感じます。ありがとうございます。

この後も、ステキな時間を過ごして下さい。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月 3日(日)08時47分15秒
  「どんな時にも大丈夫」

ある日、ユダヤ教のラビ(教師)の息子が突然、「キリスト教に改宗したい」と言い出した。

両親はショックのあまり言葉を失い、夜、一心不乱に祈り始めた。

すると、急に天から神が現れた。そこで両親はこう叫んだ。

「主よ、わたしたちの息子がキリスト教に改宗すると言っています。あの憎きキリスト教に息子が盗まれてしまいました!!」

神は、ため息一つ付いてこう言った。

「実は、わたしの息子もそうだった。」

人生は何が起こるかわかりません。想定外、未曾有という言葉が使われてきました。一寸先は闇か?光か?

そんな状況の中、なるようになる「ケセラセラ(Que sera sera)」で生きて行ったらいいのでしょうか?

仏教徒の「リチャード・カールソン」という人が書いた、「小さいことにくよくよするな! しょせん、すべては小さなこと」という本がベストセラーになりました。この題名は説得力があります。

聖書は何と言っているでしょうか?

2000年も前から、「何事も(大きいことも、小さいことも)思い煩ってはならない。(くよくよするな!)ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。」と語ります。

「ケセラセラ(なるようになる)」ではなく、「神が共におられるから大丈夫!」と言っているのです。

「神が共におられる」という確かな土台を持って、くよくよしないで、楽しみながら新しい週を迎えましょう。

全ては、自分を造られた神を信じ、頼り、讃えるところから始まります。日曜日に神を礼拝することから一週間をスタートしませんか?

新宿福興教会HP http://www.geocities.jp/sgr_ch/

首都圏から遠い方で教会に行ってみたいと思われる方には、近くの教会を紹介致します。

また、インターネットを通して礼拝を生中継しています。良かったらご利用ください。

〈1〉朝10時半~昼12時〈2〉夕4時半~6時

★ニコニコ動画  http://nico.ms/l/co114841
★ステッカム(stickam)TV http://www.stickam.jp/profile/pastor
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月 2日(土)23時11分45秒
  「Now watching 509」

路傍伝道の賛美練習をしました。来月は大阪、兵庫、四日市などに宣教旅行に行きます。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月 2日(土)11時21分40秒
  「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉【959】2017/12/2(土) 意識が高い人・低い人」

教育の現場などで、自己肯定感の重要性が話題になることがあります。自己肯定感の高い人とは、意識の高い人なのかも知れません。

しかし、意識の高さに罠が隠れているように思います。

自己肯定感が高い人は、自分のことが好きです。ナルシストと紙一重です。

さらに、自分の実力が10なのに、20とか、50とか、ひどい場合は、100や200と考えてしまいます。

意識が低い人は、自分の実力が10だとしたら、8とか、5とか、1であると卑下して考えます。

大切なことは、意識が高いとか低いとかではなく、等身大の自分になり切ることです。

そんなありのままの自分を知る秘訣はどんなところにあるのでしょう。

私は、Apple?のiPhoneを愛用しています。iPhoneは、「説明書がなくても使える」とよく言われますが、それは嘘だと思います。

必要最小限のことは説明書がなくても使えますが、使いこなすとしたら、それの何十倍、何百倍のことができるようになります。

AppleCare+という保証サービスに入っているので、わからないことがあると、Apple Supportに電話をして、スペシャリストに詳しく教えてもらいます。

「さすがメーカーは違うな!」と思います。

その製品や作品のことを一番良く知っているのはメーカーだからです。

私たちのメーカーはどこにあるでしょうか?誰でしょうか?

聖書は、私たち人間のメーカーは神であると教えます。

自分でさえも、自分自身の事を正確にわかっている人はまず居ません。

人間に与えられている無限の可能性は、メーカーである神を知り、神と交わり、神に聞く時にはじめて知ることができるものです。

よく言われる意識が高い人は、単なる勘違いや思い込みの強い人です。

また、意識の低い人は、それも、単なる勘違いや思い込みの強い人です。

神を知り、神と出会い、神と交わり、神に聞くことなしに本当の自分を知ることはできないと思います。

私たち人間は、全知全能の神に似せて造られているのです。しかも、その神よりも少しだけ低く造られているのです。

なぜ少しだけ低い存在なのかというと、「神ではない」ということ、神に頼り、神と共に生きる必要があるという点に関してです。

「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。」(詩篇8:4~6)

自分のありのままを知り、等身大の自分を生き、幸せな一日一日を歩んで参りましょう。

この後も、ステキな時間をお過ごし下さい。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月 2日(土)07時56分41秒
  「無邪気なあなたが一番素敵」

無邪気とは、心に「邪気」が「無」く、悪気やいつわりがない姿です。

無邪気なあなたは、まっすぐで悪意のない、素直なあなたです。それが本当のあなたです。

あなたが無邪気な姿で生きているなら、自分が好きで、同じように、人のことも好きになり、生きていることが楽しくて仕方がないでしょう。

心に「邪気」が広がると、人を疑い、意地を張ったり、意地悪をするようになり、生きていることがつらくなります。

いつも無邪気でいる秘訣は、あなたを無邪気な人として造り、そのあなたを愛しておられる神と共にいることです。

そして、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝することです。(テサロニケ人への手紙5章16節~18節参照)

「邪気」は振り落とされ、無邪気で優しく、幸せなあなたでいられるはずです。

そんなあなたと一緒にいる人は幸せになるに違いありません。

今日も、無邪気なあなたでいられますように。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月 1日(金)10時39分1秒
  「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉【958】2017/12/1(金) 小事に忠実に生きる」

昨日は、「苦難にある者たちの告白」-ある患者の詩-を分かち合いました。

大事を成そうとして、
力を与えてほしいと神に求めたのに、
慎み深く、従順であるようにと
弱さを授かった。
より偉大なことができるように
健康を求めたのに
よりよきことができるようにと
病弱を与えられた。

幸せになろうとして
富を求めたのに、
賢明であるようにと
貧困を授かった。

世の人々の賞賛を得ようとして、
権力を求めたのに、
神の前にひざまずくようにと
弱さを授かった。

人生を享楽しようと
あらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるように
命を授かった。

求めたものは一つとして
与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた。

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、
心の中の言い表せない祈りは
すべてかなえられた。

私はあらゆる人の中で
最も豊かに祝福されたのだ。
(作者不明)

この詩の「大事を成そうとして、」で始まるところが好きです。

若い頃の私は、夢が多く、「世界を変えたい」などの「大事をしたい」と心燃やしていました。

しかし、願った通りには成りませんでしたが、神様が私に与えられた使命を夢見、大志を抱きながら生きています。

与えられた仕事を忠実に行うことで、神様は、忠実さを認め、少しずつステップアップして大事を任せて下さっています。

「こんな小事はつまらない。私はもっと偉大な人間なのだから、もっとちゃんとした仕事をしたい!」と思い上がってしまったとしたら、神様は信頼して下さらないと思います。

私は、神様に信頼して頂ける様な人になりたいと思って来ました。

だから、人に認められなくても、人にわからないことでも気にしないで、すべてを知って、見ていて下さる神様の御前で仕事をして来ました。

人の評価は変わりやすく、偏っています。

私を、評価して下さる人もいますが、そうでない人もいます。その評価に一喜一憂していたとしたら、疲れてしまうし、表面だけを繕うようなずるく、偽善的な人間になってしまいます。

神様は生きておられ、私の心の悲しみやうめきさえも知っておられます。

だから、人から認められなくても、純粋な動機を持って、神様に喜んで頂ければ良いと思っています。

そうしたら、心が自由になりました。

小事に忠実に生きたら、神様が大事をも任せて下さるようになりますし、承認欲求を人から満たしてもらわなくても、神様が満たして下さるのです。

心は喜びで溢れています。

さらに、小事を忠実に行うことで、数多くのスキルアップをすることができ、キャリアを積んでくることができました。

しかし、それは、世の中の人がわかるスキルやキャリアでなくて良いのです。

今日も、私は、神様との関係の中で生きていきたいと思います。

この後も、ステキな時間をお過ごし下さい。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年12月 1日(金)07時56分17秒
編集済
  「二兎を追って獅子を得る」

「二兎を追うものは一兎も得ず」ということわざがあります。

その意味は、それぞれに逃げていく二匹の兎(うさぎ)を追いかけても、一匹の兎も捕まえられないことがあるように、二つのことを同時にやっても、両方とも中途半端で終わってしまうことがあります。

しかし、神様が与えて下さった使命のためには、二兎どころではなく、三兎も四兎も同時に追いかけていく必要があります。

私の職業は牧師です。基本的には、牧師の仕事だけをしながら生きています。

基本的にはと言ったのは、「牧師の仕事はここからここまで」というのは、人間が考え、人間が決めた部分もあるからです。

「牧師らしさ」という牧師像まで出来上がっています。

「絵に描いたような牧師そのもの」という人もいますが、「とても牧師らしいとは思えない」人もいます。

私は、おそらく後者です。

地域のPTA連合会や育成会の懇親会にはじめて参加した時、「失礼ですが、どんなご職業をされているんですか?」と興味津々で聞かれました。「四択で当てて下さい」と言いました。

1、 公務員
2、 セールスマン
3、 会社社長
4、 牧師

「牧師ではないだろうな。一体何だろう!?」

「答えは、牧師です」と言いにくい状況になりましたが、言いました。一斉に、「えーーーーー」と言う声があがりました。

何年か前に、仕事である教会を訪問しました。牧師夫婦が出て来られました。牧師夫人は、私が20歳の時(今から26年前)に、神学校に願書を出しに行った時に受付をしてくれた女性でした。

「えー、菅野先生ですか?懐かしい!今でもはっきり覚えていますよ!」

「どうしてですか!?」と聞いてみました。

「通常、神学校に入学して来る人たちとは違う自由を雰囲気持った人だったので、印象的でした。」と言われました。

それは、良い意味で言って頂いたと思いますが、言葉を変えたら、神学生らしくなかったということなのだと思います。

牧師になった今では、牧師らしくない部分があるかも知れません。(仮に、私が有名な牧師になったとしたら、従来の牧師らしい人が、「あなたは牧師らしくないですね」と言われることになるかも知れませんね。【笑】)

先ほどの懇親会で、四択職業クイズで「牧師です」と言って驚かれたので、「そんなに牧師らしくないですか?」と聞いてみました。

第一の理由は、そもそも、今までに、牧師という職業の人に会ったことがなかったそうです。

次に、牧師は、やせていて、貧しそうで、世の悩みを一身に背負っているようなイメージだったそうです。

明るいし、幸せそうだし、お金持ちそうで、漠然と持っていた牧師像を壊してくれたと言われました。

どんなイメージを抱くのも自由ですが、そのような牧師像を作ったのが神様でないことだけは確かです。

イエス様は大工の子でした。決してひ弱ではなかったはずです。また、大食いで大酒飲み(マタイ11章18節~19節、ルカ7章33節~34節参照)と言われています大きな声で笑ったり、豪快な人だったに違いありません。

以前は、牧師らしく見られないことで悩んでいた時期がありました。友人の牧師に相談しました。

友人は、「菅野先生が牧師という枠にはまらないに決まっています。神様は牧師の枠に合うように造られたのではなく、菅野直基という規格で造られたのだから、そんな牧師という枠組みなんて無視して、神様が造られた菅野直基という規格に沿って生きて下さい」と言ってくれました。悩みは一気に吹き飛びました。

それまでは、「『牧師』と『牧師以外の仕事』の二兎を追うことをしてはいけない!」と考えていました。

しかし、神が菅野直基として造られた規格に沿って、三兎でも、四兎でも、時には、五兎でも追いかけながら生きています。

私は、新宿福興教会の牧師ですが、20以上のボランティア団体に所属して、様々な仕事をしています。

出前牧師として、呼んでいただける場所には、どこにでも出張します。

大会での講師や音楽ゲストとして呼ばれることもあります。

結婚式や葬式の司式、引越しの手伝い、大会のゲストの接待や送迎、外国から来られた宣教チームを富士山や箱根にお連れしたこともあります。

病床で臨終の人に洗礼を授けたこともありますし、マクドナルドやファミリーレストランで洗礼式をしたこともあります。

友達がいない人の友達として、自宅を訪問したり、慰問したこともあります。

深刻な悩みの相談を受けたこともあります。一言でも口外したら、大変な騒ぎになるような秘密を聞かせてもらったこともあります。

日本各地や外国からも呼んでもらうこともあります。

神様が私に与えられた仕事は、牧師の枠組みに入っている仕事も数多くありますが、通常の牧師がやらないような仕事をすることもあります。

神様は、世の中の人が考える牧師という枠にはまった仕事をさせるためではなく、神様がさせたいと思う仕事をするために私を造られ、召して下さったと思います。

「二兎を追って獅子を得る」という題を付けましたが、聖書は、「イエス・キリスト」のことを「ユダの獅子」と呼んでいる箇所があります。

『すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」』(ヨハネの黙示録5:5)

私は、たくさんの兎を追いかけているのではなく、その向こうにおられる「ユダの獅子」=「イエス・キリスト」を追い求めています。このお方が私のすべてだからです。

獅子はどんな存在でしょうか?

世界最古の建造物であるエジプトのスフィンクスは、体がライオンでできています。エジプト文明では、獅子を特別な獣と考えていました。

古代アッシリアでもライオンの彫刻が多く見られます。

ライオンの持つ属性は、権力や王の象徴であり、支配者のイメージを持っています。

西洋からインドにかけては、獅子は「百獣の王」と言われてきました。

「ユダの獅子」と呼ばれるイエス・キリストは、勇ましい王の王であり、天においても地においても一切の権力を持ったお方であり、そのイメージにふさわしいお方です。

『わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』(マタイ28:18~20)

人が作った牧師像は、やせていて、貧しそうで、暗く、世の悲しみを一身に背負っていて、悲壮感が漂っているという、おおよそ、実際のイエス・キリストのイメージとは、似ても似つかないのではないでしょうか。

もちろん、全人類の罪と死、病と呪いを一身に背負われました。

『彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』(イザヤ53:2~5)

十字架にかけられたイエス・キリストが、そこまで悲惨な状態にさせられたのは、私たちの身代わりとして死なれたからです。

しかし、聖書は次のように語ります。

『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。』(第二コリント8:9)

キリストは、物々交換するかのように、私たちの貧しさを引き受けられ、代わりに、ご自分が持っておられた富を私たちに与えて下さいました。

私たちは、キリストの豊かさ、キリストの輝き、キリストの愛、キリストの恵み深さを現わし、伝えていきたいものです。

私は、ユダの獅子であるイエス・キリストを追いかけ、追い求めた結果、何匹もの兎を追いかけていきたいです。

今日も、この方を追い求め、この方から目を離さないで生きていきましょう。

『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。』(ヘブル12:2)

素敵な一日でありますように。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年11月30日(木)22時37分57秒
  「Now watching 508」

今日は路傍伝道ネットワークの定例会(通常国会)と私の地元の北新宿一丁目交差点でクリスマスソングを歌い、クリスマスメッセージをしました。

地元なので、親しくしている区議会議員さんをはじめ、ご近所さんや知人もたくさん通りました。とても良い時間でした。

ただ雨が結構降って来たので、お互いに傘を差し合いましたが、ギター(雨の日用ギターですが)も体もずぶ濡れになりました。

雨の日はアーメン。そして、雨でもハレルヤ。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年11月30日(木)15時18分56秒
編集済
  「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉【957】2017/11/30(木) 神様は忘れていない」

思い起こせば、祈ったことで答えられていないことがいくつかあります。

しかし、その祈りが答えられたとしたら、私の持ち時間の多くがそこに取られていたと思います。

神様は、私が祈ったことをすべて叶えて下さるのではありません。

神様が、あえて祈りに答えて下さらなかったことに対しては、負け惜しみなしに、「それで良かった」と心から思えます。

しかし、祈ってから少し時間差があって、立て続けに答えられたことがありました。

「神様は、私のことを忘れておられなかった」と、本当にうれしくなりました。

祈りを通して、神様は、神を信頼すること、待つこと、委ねること、神が私を忘れておられないこと、神が生きておられることを教えて下さいました。

私が牧師として、人間的に頼れるものを持っていたとしたらどうだったでしょう?

権力、お金、人脈やコネクション、能力等。

きっと、それらに頼って、神に祈らない領域を持ったに違いありません。

神様は私に、信仰プラスαを持たせないで、すべてが神様だけに頼れるようにして下さいました。

私は、神様は、「神様だけが必要のすべてです」と語れるように、私から頼れるものをすべて取り去られました。

しかし、神様だけを頼れるように導かれるとともに、必要のすべてを与えて下さいました。

本当に良かった。私は、誰よりも祝福されていると心から思います。

最後に、私が好きな詩を記します。

「苦難にある者たちの告白」-ある患者の詩-

大事を成そうとして、
力を与えてほしいと神に求めたのに、
慎み深く、従順であるようにと
弱さを授かった。
?より偉大なことができるように
健康を求めたのに
よりよきことができるようにと
病弱を与えられた。

幸せになろうとして
富を求めたのに、
賢明であるようにと
貧困を授かった。

世の人々の賞賛を得ようとして、
権力を求めたのに、
神の前にひざまずくようにと
弱さを授かった。

人生を享楽しようと
あらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるように
命を授かった。

求めたものは一つとして
与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた。

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、
心の中の言い表せない祈りは
すべてかなえられた。

私はあらゆる人の中で
最も豊かに祝福されたのだ。
(訳者不明)

A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED

I asked God for strength, that I might achieve
I was made weak, that I might learn humbly to obey...

I asked for health, that I might do greater things I was given infirmity, that I might do better things... I asked for riches, that I might be happy I was given poverty, that I might be wise...  I asked for power, that I might have the praise of men I was given weakness, that I might feel the need of God...  I asked for all things, that I might enjoy life I was given life, that I might enjoy all things... I got nothing that I asked for -- but everything I had hoped for Almost despite myself, my unspoken prayers were answered. I am among all men, most richly blessed!

この後も、素敵な時間をお過ごし下さい。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年11月30日(木)07時56分13秒
  「感謝を妨げる敵」

小さな感謝が大きな幸せを与えてくれることがあります。

しかし、小さな不満や絶望が私たちの心の中に住み着いて不幸をもたらしていないでしょうか。

感謝を妨げる3つの敵がいます。

1、「欲望」
2、「比較」
3、「心配」

1、欲望

ある人がこんなジョークを言いました。

「人の欲望はあまりにも深いので、神様でさえそれを満たすことはできない。」

何かを望み、それを手に入れたかと思うと、次のものをほしくなります。さらに次のものをほしくなり、多くを望むのに満たされず、不幸になります。

欲望と感謝は共存できません。欲望は悪魔に属し、感謝は神に属するからです。

欲望は、神の恵みを受けている人でも、一瞬にして不幸のどん底に陥れる力を持っています。

つまり、ある程度の欲望は、人にやる気をもたらせますが、行き過ぎた欲望は不幸をもたらします。

私たちに必要なのは、満ち足りるすべを知ることです。

『満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。』(第一テモテ6:6~8)

『私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。』(ピリピ4:12)

2、比較

比較は欲望の別の顔です。

相手と自分を比較し、優越感を持って高慢になり、劣等感を持って自己卑下します。

どちらに転んでも感謝できません。

比較すると、相手が、自分より多く持っていて、多くの愛や称賛を受け、高い才能や学歴を持っていると感じて、感謝は消えて、不幸な状態に落ちていきます。

悪魔は、比較によって私たちを妬みの奴隷にし、みじめな気持ちにさせます。

人生をみじめにするのは、貧しいからではない。失敗したからでもない。才能が少なく、学歴がないからではない。人と自分を比較するからです。

聖書は、『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』(イザヤ43:4)と語ります。

比較することをやめて、神があなたにどう思っておられるのかに思いを向けましょう。

3、心配

人が心配する内容の90%以上は、過ぎ去った過去や、まだ来ていない未来のことです。現在の心配は10%未満です。

聖書は、『あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』(マタイ6:34)と語ります。

未来のことを前もって心配することはやめましょう。

一人の女の子が、難関の進学校を受験しました。面接がうまくいかなかったので、家に帰るなり、「もうダメだわ。私の人生終わったも同然だわ!?」と、泣きながら両親に心配の気持ちをぶつけました。

数日後、結果が知らされました。合格することができました。

しかし、「優秀な人ばかりが入学することになった。勉強についていく自信がない。どうしよう・・・」と、次の心配をはじめました。

この女の子は、このままであれば、その後も、大学受験を心配し、大学に合格しても、就職ができるかどうかを心配し、職場になじめるかどうかを心配し、結婚できるかどうかを心配し、延々と心配し続けていくことになります。

聖書は、『何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。』(ピリピ4:6)と語ります。

心配すると、心を委縮させてしまいます。感謝するなら、心が楽しさで溢れさせてくれます。

「感謝をもってささげる祈り」とは、過去に起こったすべてのできごとや、現在起こっているすべてのできごとのすべてが相働いて、未来に大きな益が与えられると信じて、先取りして感謝することです。

「今あるもので十分」と考え、他人と比較せず、心配を感謝に変えていきましょう。

突風が黒雲を吹き飛ばすように、感謝は「欲望」と「比較」と「心配」の黒雲を一気に吹き飛ばしてくれます。

感謝に溢れた一日を過ごせますように。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年11月29日(水)11時08分33秒
  「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉【956】2017/11/29(水) いい肉の日」

「いい(11)にく(29)」の語呂合せから、宮崎県の「より良き宮崎牛対策協議会」が「いい肉の日」と制定。

きっと、全国の肉屋さんで肉がたくさん売れるでしょうし、焼肉屋さんにたくさんの人が食べに行くのではないかと思います。

私は、まもなく遅い朝食を食べます。と言っても、寝坊したのではありません。朝からずっと仕事に没頭しています。

今晩の祈祷会が夜9時過ぎに終わり、その後、参加者のみなさんと食事に出かけるので、朝の食事時間を11時過ぎにして、昼の食事時間を夕方前にして、夜の食事を9時過ぎに食べます。

ある栄養士から、「食事は1日に6回くらいに分けて食べるのが体にいいんですよ」と教えてもらいました。

しかし、1日に3回の食事をしていた習慣を、6回に小分けするとなると、食べる量の調整が難しかったり、仕事相手や仲間たちと食事をする時間の調整が難しいのではあいかと考えて、まだトライしたことはありません。

肉と言えば、家族で、一緒に焼肉屋に食べに行ったことを懐かしく思います。現在は、妻や子どもたちのそれぞれが忙しいので、一緒に旅行に行ったり、食に出かけることが少なくなりました。

左下の写真は、現在高校1年生になりましたが、その長男と幼稚園の頃に東京モーターショーに行った時のものです。

子どもはいくつになっても子どもですし、かわいいものですが、今は勉強もがんばるサッカー少年に成長しました。

親は、子どもが完全になったら認め、愛情を注ぐのではありません。成長のプロセス一つ一つを見守り、喜び、愛し、受け入れます。

神様も、神の子どもである私たちが、完全になったら愛してくれるのではありません。私たちには欠けがあり、罪を犯すことを百も承知した上で、成長のプロセスの一つ一つを見守り、喜び、愛し、受け入れて下さっています。

イエス様は、「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」(マタイ6:11)と祈りなさいと教えられました。

神様は、私たちが祈らなくても、今日の食事や様々な必要があることは百もご承知です。

しかし、それが交わりなのです。

夫婦、親子、友達、仲間と、阿吽の呼吸で、何も話さなくても通じ合える関係を持てることがあります。

しかし、にもかかわらず、それでもあいさつを交わし、心を開き、心の中にあることを分かち合うことはとても重要です。そのことで、関係が深まっていくからです。

どんなことでも神様に祈り、心を開いて、心の中にあることを分かち合っていきましょう。

神様は、私たち人間が想像して作った存在ではありません。反対です。私たち人間を創造し、造られたお方です。

肉が食べたければ、「神様、いい肉が食べたいです」と祈ったらいいのです。

この後も、ステキな時間をお過ごし下さい。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年11月29日(水)07時58分13秒
  「備えあれば憂いなし ~震災と終末に備えよう~」

今日本では、「南海トラフ地震」と「首都直下地震」の二つの巨大地震が懸念されています。

これらの地震は、近い将来に、高い確率で起こると予想されています。

巨大地震が起こったら、何が一番大切かというと、「安全な場所に避難する」ことです。

あなた一人が無事でいられることと、建物の下敷きになって動けない状態の二つを想像してみて下さい。

もし無事であったら、他の救助を必要とする人を助けることもできます。

次に、飲み水や食料の確保とライフラインの確保が必要です。

「備えあれば憂いなし」と言われますが、地震対策は必要です。

震災に遭った人に聞いてみたらわかります。備えをしていて無駄だったということはありません。むしろ、必ず役立ちます。

何を準備したらいいでしょうか?

① 飲料水
② 食料品
③ 衣類や履物
④ ナイフと缶切り
⑤ カセットコンロと燃料
⑥ 携帯ラジオ
⑦ 電池
⑧ マッチやライター
⑨ 懐中電灯やローソク
⑩ 救急セット
⑪ 筆記用具
⑫ 雨具や防寒具
⑬ ティッシュなど。

さらに、火災や避難や救出のためには、
① 消化器
② ヘルメットや防火頭巾
③ おの
④ ハンマー
⑤ スコップ
⑥ バール
⑦ のこぎり
⑧ 防水シートなど。

「備えあれば憂いなし」です。ぜひ、地震に備えましょう。

次に、終末に対する備えが必要です。終末には二種類あります。

① あなたの死
② この世の終わり

① を終末に含めるなら、終末は近い将来、100%の確率で訪れます。しっかりと備えなければいけません。

私たちに与えられた時間には限りがあります。人生の目標を立てて、それに対してしっかりと計画をし、その計画に従って毎日独力し、全力で生きていきましょう。

次に、死に対する備えが必要です。若いうちは、「自分が死ぬ」ことはほとんど考えていないと思います。普通は、若くして亡くなるということはないからです。しかし、平均年齢の70歳~80歳まで生きられる保証はありません。

死に対してどんな備えをしたらいいでしょうか?

聖書には、「あなたはあなたの神に会う備えをせよ」(アモス書4章12節)と書かれています。

神に会う備えとは何でしょうか?

「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」と言われました。

神に会う備えは、イエス・キリストを救い主として心に受け入れることです。それが唯一の神に会う備えです。

逆に考えれば、地震に対する備えよりはるかに簡単です。

世界の人口のおよそ33%にあたる20億人の人がイエス・キリストを救い主として受け入れました。しかし、私たちの住む日本では、一般に1%。アメリカのギャロップ社の調査によると6%、10代の若者は7%がクリスチャンです。

そうしたら、日本の90%以上の人たちが、まだ終末の備えができていないことになります。

多額のお布施をするとか、比叡山に行って過酷な修行をするとか、何らかの善行を行うことが条件ならハードルは高いです。しかし、ただイエス・キリストを救い主と信じるだけです。

まだイエス・キリストを救い主と信じていない人は、どうぞ、今日信じて下さい。そして、震災の備えだけではなく、終末の備えをして、一日一日と今を楽しみ、感謝しながら、自分の人生を最高に生きていきましょう。

いよいよ冬本番です。風邪をひかないように気をつけて下さい。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年11月29日(水)02時01分2秒
  「路傍伝道ネットワーク」 年末年始の予定(参加自由)

12月4日(月)「クリスマス待望 川口駅東口 3時間伝道」
午後5時集合 午後5時30分~8時30分

12月8日(金)「山手線一周祈祷会&新橋駅プレ伝道」
午後6時15分に「山手線新橋駅 内回り先頭付近」に集合 午後6時30分~7時30分まで電車に乗っての祈祷会。終了後に新橋駅のすべての出口で軽く路傍伝道

12月9日(土)「有楽町駅銀座口伝道」(出て右に真っ直ぐ進んだ突き当たり辺り)
午後6時30分集合 午後7時~8時30分

12月15日(金)「第3回賛美集会」
御茶ノ水クリスチャンセンター402号に午後6時30分集合 午後7時~9時

12月18日(月)「第3月曜日定例新宿伝道」
新宿駅東口アルタ前広場に午後6時30分に集合 午後7時~8時

12月23日(土)「クリスマス 3時間大路傍伝道 in 新宿」
新宿駅東口アルタ前広場に午後4時30分集合 午後5時~8時

12月25日(月)「新宿クリスマスラブコミ」(後援 路傍伝道ネットワーク)
新宿駅東口アルタ前広場に午後6時30分集合 午後7時~8時(延長の可能性あり)

12月29日(金)「山手線一周祈祷会&原宿駅ミニ路傍伝道」
午後5時15分に「山手線原宿駅 外回り先頭付近」に集合 午後5時30分~6時30分まで電車に乗っての祈祷会。終了後に原宿駅竹下口前で軽く路傍伝道。

12月30日(土)「路傍伝道納め in 新宿&忘年会」
新宿駅東口アルタ前広場に午後6時に集合 午後6時30分~8時 終了後に忘年会。

1月1日(月)「初路傍伝道 in 渋谷駅ハチ公口&新年会」
渋谷駅ハチ公口広場に午後6時30分に集合 午後7時~8時 終了後に新年会
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年11月28日(火)23時38分45秒
  「Now watching 507」

クリスマス路上ライブの練習をしました。今年のクリスマスは、オーソドックスな賛美歌の他に、「We wish you a Merry Christmas」、「赤鼻のトナカイ」、「クリスマス・イブ」、「サイレント・イヴ」、「ジングルベル」、「サンタが街にやってくる」なども歌う予定です。終わってから、遅めの夕食をして解散しました。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年11月28日(火)18時18分44秒
編集済
  「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉【955】2017/11/28(火) でんわウォーキング」

ビジネスマンと関わり伝道する機会があります。夜9時や10時から食事をしながらミーティングをします。

そんな日は、意図的に朝食や昼食の時間をずらしてます。

朝食を朝10時~11時にし、昼食を午後3時~5時です。

今日は朝から大忙し。そんな時の方が仕事がはかどります。

時間にゆとりがあったら、のんびりしてしまいますか、限られた時間の中で、優先順位の高い仕事から全力で行います。

一仕事が終わり、二つめ、三つめが終わり、午後3時に昼食を食べました。

ラーメンやライスなど、炭水化物を減らす努力をしていますが、気がついたらラーメンに手が伸びてしまいます。

食後には、祈りの(神様とでんわ)散歩をします。祈りながら歩き、歩きながら祈ります。

しかし、今日は親しい人と電話で2時間話しました。

気がついたら2時間近く歩き続けました。良い運動になりました。自分爽快です。

いつもは、神様にでんわをかけるか、でんわがかかってきます。

祈りは神様とのお話です。祈りでも、親しい人とのでんわでも、歩きながらだととても盛り上がります。そして、あっという間に1時間が過ぎてしまいます。

でんわウォーキングをおすすめします。

この後も、素敵な時間をお過ごし下さい。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年11月28日(火)07時06分9秒
  「プラス思考の秘訣」

物事をプラスに考える習慣は、何にも代えられない宝です。

「プラス思考の例」としてよく用いられるのは、好きな飲み物を半分飲み終わった時に、
-・・・「もう半分しかない」
+・・・「まだ半分もある」

また、靴の会社が、発展途上国の奥地に二人の調査マンを派遣して報告させたら、
-・・・「現地人はみんな裸足です。靴が売れる可能性は全くありません」
+・・・「現地人はみんな裸足です。靴が売れる可能性が無限にあります」

人生において、目の前にある扉が開くかどうかは、心の持ち方、物の考え方一つです。

落ち込んだ時、逆境に置かれた時、失敗した時などのマイナスの状況にあっても、考え方一つで希望が湧いてきます。

失恋して落ち込んだ女性に、「彼があなたから去っていったことは確かに悪いニュースですが、良いニュースは、この世の中には、あなたにふさわしい素敵な男性が星の数ほどいることです。」と言えます。

夫からのDVで苦しめられた挙句に、離婚を迫れている女性に対して、「子供が1人いて、さらにおなかの中に赤ちゃんがいるのに大変だと思います。しかし、今日からあなたはDVから解放されて、自由な人生を生きることができます。」とアドバイスをしたことがあります。

その女性は、その言葉に慰められただけではなく、その後復縁して、現在は幸せな家庭を築いています。

プラス思考の力は、一人の人の人生を変えることさえあります。

プラス思考において大切なことは・・・、

1、まず、無理にこじつけたようにプラスに考えるのではなく、「現状をあるがままで受け入れる」ことです。

アメリカの神学者の「ラインホルド・ニーバー」は、次のような祈りを神に捧げました。

「神よ 変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、 変えることのできるものと、変えることのできないものとを、 識別する知恵を与えたまえ」

(英語版の原文)
「O GOD, GIVE US
SERENITY TO ACCEPT WHAT CANNOT BE CHANGED,
COURAGE TO CHANGE WHAT SHOULD BE CHANGED,
AND WISDOM TO DISTINGUISH THE ONE FROM
THE OTHER」

プラス思考の土台は、「変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さ」つまり、「現状をあるがままで受け入れる」心のゆとりです。この心を神に、「与えて下さい」と祈ることからはじまります。

2、次に、あるがままの現状に対して、マイナスとか、プラスという判断を下さないで、神に委ねることです。

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(ローマ8:28)

神は、「すべてのことを働かせて益としてくださる」お方です。

私たちの目にはマイナスに映ったとしても、神は、マイナスをプラスに変えて下さいます。

神が「すべてのことを働かせて益としてくださる」プラスは、私たちの目にも、マイナスがプラスに変わったと必ずわかる形で変えて下さる「プラス」です。

神に信頼し、神にお任せしましょう。

3、最後に、「十字架」は「プラスの形」をしていますが、十字架こそ、マイナスをプラスに変える最強の力です。

どう見てもマイナスとしか言いようがない状況もあります。

無理にプラスに考えようとしても、とても難しいですし、神が万事を益と変えて下さったことが自覚できるのにも、しばらく時間がかかりそうな時にこそ有効な方法があります。

マイナスの状況の中に、イエス・キリストが十字架にかけられた木を投げ入れ、イエス・キリストをそのただ中にお迎えすることです。

次のような実話があります。

『モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか」と言った。モーセは【主】に叫んだ。すると、【主】は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。』(出エジプト15:22~25)

イスラエルの民は、荒野で三日間も水が見つからなくて瀕死の状況に追い込まれていました。しかし、やっと見つかった水は苦くて、とても飲めるようなものではありませんでした。

民は、導いているモーセにつぶやきました。モーセは神に祈りました。そうしたら、「一本の木」が示されました。モーセは、苦くて飲めない水の中に、「その一本の木」を投げ込みました。すると、その苦い水は、甘くておいしい水に変わりました。

この「一本の木」とは、将来、イエス・キリストが十字架にかけられて処刑される十字架の木です。

祈りによって、あなたのマイナスの状況の中に、イエス・キリストの十字架の木を握りしめて、投げ込んで下さい。マイナスはプラスに変えられるはずです。

今、この時代のマラはどこにあるでしょう?

それは、私たちの心の中から流れてくる感情であり、霊です。

心が傷つき、否定的になり、失望し、絶望するならば、心が苦くなり、苦い感情と、苦い霊が流れ出ます。

しかし、その苦い心に十字架を投げ込むならば、心はいやされ、その苦さは甘く変わり、甘い肯定的な感情と霊が流れるようになります。

聖書は語ります。『イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。』(ヘブル13:8)

祈るならば、時間を超え、空間を超えて、イエス・キリストがかけられた十字架が、あなたの手に握られ、あなたの苦しみと絶望の暗闇の中に投げ込むことができるのです。

十字架は、その苦しみをいやし、マイナスをプラスに変え、絶望に光をもたらして、大逆転の祝福に変えてしまいます。

私は、クリスチャンになり、牧師になってから、この十字架による軌跡を何度も体験してきました。

プラス思考は、人間の業ではなく、神が与えて下さるごく自然な考え方です。

神が共におられるならば、プラスはプラスなので感謝できるし、マイナスもプラスに変わるので感謝できます。

すべてのことを感謝し、神にあるプラス思考で生きてまいりましょう。

素敵な一日でありますように。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年11月27日(月)14時40分32秒
  「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉【954】2017/11/27(月) 神の導き」

神の導きは、神と共に歩むことを心がけているならば、ハッキリわかることが多いです。

例えば、行こうと思っている道が閉ざされ、同時に、新しい道が開かれることが起こります。

あるやってみたかった仕事の面接に行きました。給料もよく、条件も良いし、何もかもが私にぴったりでした。

ところが、日曜日に仕事ができないことが理由で不採用になりました。

同じ時期に、別の仕事の依頼が入りました。やりたい仕事ではなかったですし、収入は多くありません。しかし、牧師の延長線上ですし、やってみてわかったことは、とてもやりがいのある仕事でした。

道が閉ざされるということは、予定外のことが起こることです。その時にはがっかりしたり、落ち込んでしまうこともあります。

後で振り返ってみると、「これで良かった」と思えるのです。

神の導きを受けるためには、神は良いお方で、最善以外を行われることはないと信じることが大切です。

神が信頼できないと、自棄になって投げ出したり、あきらめたり、場当たり的な行動を取ってしまいます。

私のちっぽけな頭では理解できなくても、神はすべてを知っておられ、最善の導きを与えて下さることに安んじて、お任せして、ついていきたいものです。

今日も心は安らかであり、喜びであふれています。

朝から外回りの仕事をしています。帰りは遅くなるかも知れません。

一つ一つが神様の導きです。

少し落ち込みかけていた時に、三田製麺のつけ麺のポイントがたまったので無料になりました。

神様の慰め、励ましと受け取ります。

お互いに、この後もステキな時間をお過ごしましょう。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年11月27日(月)07時20分46秒
  「行動に表された愛」

訪問して来た客を送り出す時には、わざわざ訪ねて来てくれたことに対する感謝を行動で表したいものです。

どこまで送っていくかで、敬意が伝わるものです。

会合の場である会議室でそのまま別れるのは、相手を相当低く見ていることの表れです。

仮に、強者と弱者の関係にあったとしても、取引をしたり、これから取引をするかも知れない関係であるならば、対等の立場にあると考えるべきです。

出入り口の先にエレベーターがあるならば、せめてエレベーターの扉が閉まるところまで見届けることが大切です。

しかし、せっかくエレベーターのところまで見送りに来たのに、ドアが閉まりはじめた途端に向きを変える人がいます。そうしたら、送ってもらった人は、最後まで送ってもらったという気持ちになりません。

エレベーターで送る時には、小走りで走ってエレベーターのボタンを押し、エレベーター押さえるというくらいは、相手が目下であるか、お得意さんであるかは全く関係なく、当然やるべき気配りではないでしょうか。

口先だけで、「ありがとうございます」というだけでは、気持ちは通じません。態度で示し、行為を通して伝える必要があります。

そして、どうせやるなら、最後まで徹底してやる必要があります。手抜きしたり、途中でやめたりするくらいであるならば、かえってはじめからしない方がすっきりするし、筋も通っているというものです。

『わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。』(ヨハネの黙示録3:15)

聖書に記されている神の愛は、徹底した愛であり、具体的な行動を通して表されました。

『過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。』(ヨハネ13:1)

約2年前、入校から7年かかって「父の学校」という学びを修了させてもらいました。

4日間の集中講義なので、7年もかける必要はありませんでした。

3日目まで出席しました。しかし、最後の日に妻が息子を出産したので、休んで、分娩室に入り出産に立ち会いました。

「菅野先生は、父の学校の精神を実行したので、特別に修了させてあげます」といってもらえることを期待しましたが、そうはいってもらえませんでした。

それから7年間、なぜかスケジュールが合わず、終了できませんでした。最後の日に出席できませんでした。

最後の日のカリキュラムは、妻も参加してもらつて、妻の足を洗う「洗足式」があります。

しかし何と、妻は参加できず、「困ったなー」と思っていたら、私が妻に変わって足を洗ってもらうことになりました。

足を洗ってもらうことがどういうことなのかを身をもって体験することができました。

心が温かくなり、愛され、赦され、受け入れられているということを感じることができました。

イエス様は弟子たちに、愛を説明によって教えられたのではなく、実際に、弟子たちの前に膝をかがめて足を洗われることで、愛を行動で示されたのです。

『イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。』(ヨハネ13:3~5)

しかし、足を洗っただけではありません。イエス様は、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれました。

天から「のぼって来い!そうしたら救ってやろう!」といったのではありません。

2017年前のクリスマスに、この地に誕生され、私たちのところまで来られ、足を洗うかのように私たちに仕えられ、最後は、私たちの罪を一身に背負われたのです。

これが愛でないとしたら、何が愛でしょうか?

男女関係のエロス(έρως)の愛は、好きな相手という条件付きであり、リターンを求めるギブ&テイクの愛です。

家族関係のストルゲー(στοργή)の愛は、血縁関係という条件付きの愛です。

友達関係のフィリア(φιλία)の愛は、親しい友達という条件付きの愛です。

しかし、神が私たちに与えられるアガペー(άγάπη)の愛は、無条件で、一方的です。

神の愛、アガペー(άγάπη)の愛は、絵に描いた餅ではないのです。

歴史の中で、十字架を通してはっきり表された愛です。これ以上の愛がどこにあるでしょうか。

この愛はどこにあるのでしょうか?

『わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。』(第一ヨハネ4:10)と聖書は語ります。

この愛はどうやったら手に入れられるのでしょう?

イエスの第一声の宣教の言葉の表されています。

『時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。』(マルコ1:15)

直訳すると、「満たされた、時が。そして、近づいた、神の国が。悔い改めよ。そして、信じよ、福音を。」です。

この「時」は、神の時を表す「カイロス」です。

「神の国は近づいた」という言葉は未来完了形で書かれています。「近未来に来る。来つつある」という意味ではなく、「神の国はすでに来ており、やがて完成される」という意味です。

「福音」とは、マルコによる福音書の冒頭で、『神の子イエス・キリストの福音のはじめ。』(マルコ1:1)と書かれていますが、神の子イエス・キリストのグッドニュースであり、救い主イエスご自身と同じ意味です。イエスご自身こそ福音なのです。

「悔い改め」とは、ギリシャ語で「メタノイア」です。罪を「悔やみ、改める」という意味ではなく、「方向を変える」という意味です。

つまり、「イエスご自身が来たことで、神の国は来ている。心の方向転換をして、神の愛を受け取りなさい。」です。

どこか遠くに探しに行く必要はありません。あなたがおられる、「今、ここ」で受け取ることができるのです。

ある人にとっては、目から鱗が落ちるような内容だと思います。

今まで、ずっと探し続けてきた愛が、今、ここにあるのです。

そして、あなたが心の方向転換をして受け取るなら、あなたのものです。

今朝、今日、この神の愛を受け取り、神の愛に満たされて一日をスタートして下さい。

神が具体的な行動を通して愛して下さったように、今日で会う人に、行動を通して愛を表していきましょう。

『あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。』(ヨハネ13:13~15)

素敵な一日でありますように。
 

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年11月26日(日)18時18分0秒
  喜びと祈り  

(無題)

 投稿者:菅野 直基  投稿日:2017年11月26日(日)13時18分6秒
  「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉【953】2017/11/26(日) 家族・仲間に感謝」

インターネットのSNSや寄稿した文章などを通して、遠くからゲストとして来て下さる方がいます。

どこに行ってもクリスチャンである共通点で神の家族であり、仲間だと感じます。

路傍伝道をしていると、出会う人々に対して、神に愛されているもの同士、一つなんだと感じさせて頂きます。

神を信じている人は信者であり、自覚的に神の家族です。

神を信じていない人は未信者と言います。その意味は、未来に神を信じる人です。

しかし、神に造られたもの同士であり、愛し合うべき仲間であり、やはり家族です。

インターネットを通して、数えきれないくらいの家族が与えられていることを覚えて感謝です。

いつもありがとうございます。
 

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